「既遂 序章」
「まぁ、いつか私がいないと生きていけない身体に調教いたしますよ。どうしようもなく私が必要だと懇願する、哀れで情けない貴方のお姿を見られるのが楽しみです」
「……お前は何がしたい」
「おや気が失う寸前に申したと思いますよ。貴方を愛していると」
知らないふりをする。実験道具として愛されるのは不愉快である上、同性に恋愛感情を抱くような性癖はない。
「ふふ、貴方が激しくするのがいけないのですよ。おかげで、貴方に上手く愛の言葉が届かなかったみたいです」
もう言わせておけばいいだろうと、まともな対話を諦めると、ヴァレスはまた笑った。人を馬鹿にしたような不気味な笑い方だ。何度聞いても、気分が悪い。
「さて、いつまでも貴方の上着を借りているわけにもいきませんし、着替えでも取って来ましょうかね。朝晩はよく冷えますし」
「俺に対する嫌味か」
「それは考えすぎですよ。少し自意識過剰です」
恐らく私室がある方向へ足を進めていると、ヴァレスは唐突に冷たい大理石の床に崩れ落ちた。
突然の事態に驚愕しながらも、彼の元へ駆け寄る。どうやら、頭をぶつけたり、怪我をしたわけではなさそうで、安堵する。
「貧血ですね。血圧が低いのも相俟って、あまり良好な状態とは言えなさそうです。ふふふ」
何が可笑しいのか、いまひとつよく分からない。
良好な状態でないといことは、やや御幣があるが、病気だということなのだから。
「何も問題はありませんよ。強いて言えば……いえ、何も聞かなかったことにして下さい。貴方に蔑まれたくありません」
「もう十分なくらい軽蔑はしている。今さら、何を言われても、もう驚く気がしない」
「それは、私のことを理解して下さったという受け取り方でよろしいですか?」
「……どうすrば、それに直結するか分からないが、もういい。好きにしろ」
「では、そう受け取らせていただきます。ふふ、愛している人に、自分を理解してもらえるということが、こんなに嬉しいこととは……」
これまでにないほど、ヴァレスは上機嫌だった。その調子を保ちながら、病室を鼻歌交じりで出て行く。吐き気を覚えるほど気味が悪い。あとどれくらいで、あの低俗な契約は切れるのだろう。考えるだけで気が遠くなる。いっそ、この呪縛を断ち切ることのできる魔術があるのならば教えていただきたいくらいであるが、ディストに魔術の才はない。人間であった頃は魔法の才があったのかも知れないが、今は半分とは言え、彼の肉を縫う赤き管に、吸血鬼の血が流れている。
魔術とは、人間の血と、身体に刻まれた紋章が反応し、共鳴することで、はじめて効果を発揮する。遵(したが)って、紋章を身体に刻み、魔術の勉学に励んだ人間ならば、誰にでも魔術を使用することができる。
ヴァレスのように、人を治癒するような術――いわゆる法術をを使用できる者は、魔術士に比べて少なく、王国へ従軍すれば軍医法術士として重宝され、多額の給与をもらうことができる。そんな待遇があるにも関わらず、ヴァレスが軍医にならないのは、自らの研究のためだろうとディストは思う。
しかし、吸血鬼を退ける程度の魔術ならば、基礎知識だけで使用することもできる。昔はこの魔術でさえ、高度なものであったが、研究に研究を重ねられた結果、単純明快なものとなり、魔術の素質がない者も紋章を刻み、ある程度の勉学に励めば使用できるようになった。そのため、吸血鬼から自分で自分の身を守るための手っ取り早い手段となり、護身のために多くの人間が使用するようになった。ちなみに、魔術と法術を両方使える者は、魔法使いと呼ばれる。
人間と吸血鬼が共存できないこの国では、何かしら戦える術がないと、生きていくことができない。半人半鬼となってから、この現実をひどく重く感じるようになった。半人半鬼になるまで、吸血鬼は人を襲って血を啜り、干からびて乾いた木乃伊のようになった人間は必要悪と切り捨てる、冷酷で残忍な種族だと思っていた。それが、今、自分自身がその存在となってしまったのだ。そのことにより、自らの身体で知ってしまった。気持ちが複雑に混濁してしまい、思いの行き着く場所が見つからない。
そんな下らない思考に思いを馳せていると、着替えを終えたヴァレスが颯爽と姿を現した。着替えたのかも知れないが、正直、どこがどう変わったのかは、じっと目を凝らさないと識別できない。きっと、同じような服を何着か持っていて、それを着回しているのだろう。頭脳明細な人間というのは、いつの時代もあまり自分の身なりは気にしないもので、彼もまたそうなのであろう。
「着替えたのか?」
「はい。白衣だけでなく、スラックスも変えたのですよ。染みがついていたので」
「そうか」
「何の染みだったのか、気にはなりませんか?」
「別に興味はない」
「そうですか」
そこはかとなく、残念そうな表情をしながら、装置の方へ足を運ぶ。そういえば、この治療はいつまでかかるのだろう。訪れたのが、確か、夕方から夜になったくらいの時間だったはずだ。最初は、診察終了時間を過ぎているので、今日はもう診察しませんと、一点張りであったが、ディストが半人半鬼であると知った瞬間、目の色を変えた。あのときは、アルヴァージュ家の少年を救ってくれると言うヴァレスが神か菩薩のように思えたが、まさか、一晩で彼の目的の全貌を知ってしまうとは思わなかった。
後に知ったのだが、あの治療法は、ネクロマンサーたちが好んで使う術(死骸から不死者を生み出したり、人間の姿を獣化したりする、屍霊魔術のこと)の一種で、国が法律で使用を禁じている禁忌の魔術となっている。そのため、その魔術を隠れて使用するネクロマンサーや、研究をするマッドサイエンティストに、ろくな人間はいないという。そのことは知っていたが、ディストの予想の範疇を大きく超えていたため、これからどう扱っていけばいいのか分からない。それも、これからずっと一緒だというのだから、厄介な話だ。
「もう朝か……」
部屋の壁にぶら下がっている時計を見て、ディストは安堵した。満月の夜が終われば、またしばらくは苦しむことなく生活できる。数年ぶりに血を啜れたからか、大して眠っていない割に、身体は軽い。
「日光は苦手ですか?」
「……それなりに」
「なるほど。そこは吸血鬼と同じなのですね」
「そこまで苦手というわけではない。身体が溶けるのは吸血鬼だけで、俺は目が少し眩む程度だ」
「覚えておきましょう」
「覚えておかなくていい」
いざというときのためか、弱みを握っておきたかったようだ。これからは軽々しく自分のことを口走らないように、気をつけた方がよさそうだ。しかし、ヴァレスは禁忌とされている屍霊魔術をいくつか会得しているはずだ。あまり禁忌の魔術に関心はなかったため、どのような効果を引き起こす魔術があるか分からない。警戒しておくに越したことはない。