「既遂 序章」
息と唾液が混じって、うまく発声することができない。この戯言に従ってはいけない。何年もの間、半分だけ残った人間の血が持つ、人間らしい理性で押さえつけて、この苦しみから逃れることができていた。
それなのに、この一時的な苦しみから逃れるために首を縦に振って、頷いてしまった。だが、人間も吸血鬼も、欲求には逆らうことができないことを思い知らされる。
自分はまた、同じことを繰り返してしまうのかも知れない。自身への苛立ちが募りに募るも、食欲が強いのだ。
「ふふ。交渉成立、ですね」
カプセル装置の元を離れ、手術台の方へ向かって、焦らすようにゆっくりと歩いて来る。近づいて来る足音に、さらに息を荒げた。飲み込むことのできない唾液は、口元からだらしなく溢れ、止まることをやめない。
「さぁ、晩餐のお時間ですよ」
ヴァレスが、手術台の上に右手をついて座り込む。ふっと嘲け笑いながら、狩人の罠に掛かった野獣のように、悶え苦しむディストの髪を撫でる。その瞬間、まるでヴァレスに反発するかのように、尖った鋭利な爪で衣類を乱暴に切り裂いた。先ほどまで服として機能していた布は、もはや襤褸(ぼろ)以外の何物でもない。
衣服を裂いて引ん剥いたあとは、獲物を補足した獰猛な獣のごとく荒々しく強引に押し倒し、長く伸びた牙を首筋に押し当てた。その姿に人間の影はない。
牙が首筋に食い込む感覚と、舌先が首筋を這う感覚が同時に襲い掛かり、抵抗する余裕すら与えられず、喘ぎや呻きにも似た悲痛な叫び声が上がる。血を吸われる感覚と舌先が素肌を撫でる感覚が快楽を引き起こし、身体中に電流が走ったかのようだった。その鋭い感覚が全身に愛しいほどの刺激を与えていく。
この身体中を迸る電流と身体中を伝う愛しき刺激で、知識欲が満たされていくことによる快感が、興奮を呼び覚ます。
全ての血という血を根こそぎ吸われ、命を落とすのではないかなどという発想はない。それよりも、欲が満たされていくのが彼にとって何よりの僥倖なのだ。
緞帳越しに大きな円形の金色が映り、薄らと差し込んでくる煌々とした神秘的な光に包まれる。カプセル装置の青白い光しか明かりのないこの部屋には、少しばかり眩しいくらいだ。
闇夜を照らすような金色の髪を、はらりと乱して崩れ落ちたヴァレスが、血の気の失せた唇で微かに言葉を紡ぎ、気を失う。
ディストの背中を照らす機械的な光と同じような色の半開きの唇を、何も言わずに静かに閉じさせた。
「う……」
夜明け前の空の明るさにやられたのか、どこか不愉快そうな声を上げて、身体を起こす。
まだ頭がぼんやりとするのか、はたまた脳に行き渡るほど充分に血液がないせいか、手術台を降りると、身体がふわりとふらついた。日々の徹夜が響いたのかも知れないなどと考えながら、寝ぼけ眼で愛用の眼鏡を探していると、ディストの姿が目に留まり、ようやく事態を飲み込むことができた。
「自我をなくしていたとは言え、すまなかった」
ゆっくりと凭れていた壁を離れると、胸ポケットに入れていたヴァレスの眼鏡を手渡し、床に落ちた上着を拾い上げる。ヴァレスが掛け布団の代わりにしていたためか、微かに人肌の熱が残っている。
「……獰猛な野獣の牙と、鋭利に尖った耳、剣の切っ先のような爪っが人間に備わり、鬼と化した瞬間――言うならば、吸血鬼化、ですね。ふふ、感謝していますよ。人間は人間、鬼は鬼。普通ならば、その他の生物になることなどできません。ゆえに、人間が何か別の生物に変化する瞬間というものは、なかなか簡単にはお目にかかれませんので」
「……とりあえず、何か着たらどうだ。日が昇ってきたとはいえ、寒いだろう」
ヴァレスは人間として歪に軸がぶれていて、時に自分よりも吸血鬼らしい歪んだ発想をすると思っているが、身体はれっきとした人間だ。身体を冷やせば風邪をひくだろう。
先述通り、人間から吸血鬼へと生まれ変わったディストは、身体能力や自然治癒力、免疫力などが人間の数倍に向上している。それゆえ、ここ数年の間、病の類にかかったことは一度もない。まるで、人間として生きていた頃の身体を、あの日に置いて行ってしまったかのように。
冷たい大理石の床に放られていた自身の上着をヴァレスに手渡した後、鮮血に染まった襤褸を拾う。これは、昨晩まで白衣として機能していたものだ。
「それは捨てて下さって構いませんよ。何でしたら、貴方と出会った記念に大事にして持っていて下さっても良いですが」
「……戯言を」
「貴方は、相当、私のことがお嫌いなようで。悲しいですねぇ。私はこんなに貴方を愛しているというのに」
愛している。
先ほど、気を失う寸前に呟いていた言葉だ。
……気分が悪い。虫唾が走る。
「自分の退屈を満たす玩具としてだろう。俺を実験用のネズミと一緒にするな。不愉快だ」
「しかし、これからはもう、私なしには生きていけない。貴方は常に私の傍らにいて、他の誰でもない、私の血だけを啜らないといけない。そういう契約だったということを、もうお忘れですか?」
裏があると分かっていたにも関わらず、ヴァレスの思惑にまんまと乗せられてしまったことが、実に腹立たしく、手の平に爪を立てる。
「この契約、負けると思っていましたよ。ここまで頑固な方にお会いしたのは初めてでしたので」
「お前はそこまでして、俺が欲しかったのか?」
「そこまでして、とは?」
「自分の身体を傷つけて、血を流してまで、自身の好奇心を満たしたかったのかということだ」
「痛いことには慣れていますよ。実験過程での火傷や凍傷、切り傷などは、あって当然のようなものです。私、こう見えて、意外と不器用なところもありますので、身体が頭の回るスピードに追いつかないこともあるのですよ。本能だけで欲しいものを手に入れ、自ら罠に嵌りに行く貴方よりは、私の方が頭の構造は良いと思いますよ」
そういうことを言っているわけではなければ、子どもの喧嘩のような真似をしたいわけでもない。
呪われたとしか言えない自分の悲運を嘆きたかったが、自身で自在に運命を変えることができれば、自分が半人半鬼になることもなかっただろうし、魔術の名家であるアルヴァージュ家に関わることも、歪な狂気に満ち溢れた、欲望の塊のような医師、ヴァレス・オルレアンに出会うこともなかっただろう。
一期一会の出会いに感謝しろとは、幼い頃に亡き両親からよく言われていたが、果たして、彼らにそんなことをできる日は来るのだろうか。
カプセルの中にいるあの少年とは、自分の犯した罪を償うために、最期の瞬間まで付き合うつもりでいる。なので、出会いに感謝云々より、いつか謝罪をしなければならないだろう。いつか罪を購い、その告白をしてなお、自分を必要としてくれるのならば、受け入れてくれたその時、初めて出会いに感謝をせねばならない。
一方、ヴァレスには感謝をされなければならないだろう。等価交換とは言え、交換する対価に差がありすぎる。しかし、うんざりとしたところで、感謝の言葉を述べられることなどはないので、何も言わないことにする。