宵のあけぼし
夕食当番というのは本当だ。
母がパートに出かけるようになってから、夕飯を作るのは孝志の当番になっていた。最初は貧相だったレパートリーも、ここ最近、少しずつ増えてきている。
孝志は学校帰り、アパート最寄りの駅のひとつ前で降りて、商店街の中ほどにあるスーパーの自動ドアをくぐる。アパートの近くより、ここの方が安いのだ。その分鮮度は少々落ちるが、贅沢なことは言ってられなかった。切り詰められるところは、できるだけ切り詰めねば。
「おや兄ちゃん、いらっしゃい」
何度か足を運んでいるうちに、お店の人とも顔見知りになった。制服姿の、それも男子高校生がスーパーに来るのは、やはり珍しかったのだろう。
「あ、どうも」
ここで近所の気のいいおばちゃんなら、今日のお買い得品は何よ、や、これ負けてちょうだいな、などと言えたのだろう。けれど孝志にそんな度胸は無い。それに、そこまでして他人と関わりたいとも思わない。学校と、家庭。孝志の世界は今のところそれで充分満足だった。
スーパーのおばちゃん店員は、孝志が訊いてもいないのに、今日は鶏肉がお買い得だよ、と伝えてくる。そのくせ、孝志が振り返るころには忙しなく別の作業場へ行ってしまう。結局孝志は、今日もおばちゃんの顔をまともに見ることもなく、本日のお買い得コーナーへ向かうのだった。
本当だ。確かに鶏肉が安い。
油を使うのはやっちゃだめだと言われているから、鶏肉を使ったレパートリーは限られる。孝志のできる範囲だと、親子丼、鍋照り、鳥煮込み……そのとき、そういえば先週、祖母宅から大量のじゃが芋が送られてきたことを思い出す。そうだ、カレーにしよう。ばあちゃん家のじゃが芋たっぷりチキンカレー。カレーなら数日寝かせてもおいしいし、比較的簡単だし。
孝志はカレールーやら必要なものをカゴにぶっこむと、レジを抜けた。
スーパーを出ると、空にはもう一番星が輝いていた。この時期になると、夏のころはじりじりと七時ごろまで粘っていた太陽が、嘘のように早く沈み始める。つるべ落としとはうまく言ったもんだ、と思ったその頭に、鞄の中に突っ込んだままの模試の成績で、古典の成績が最悪だったことを思い出す。同時に、夏前に行った担任との面談で、「佐伯は文系志望なんだから、国語の成績がこのままだとまずいぞ」と忠告されたことも、思い出した。
そんなことわかってる。でも、文字の羅列を見ていたらそれだけで頭がくらくらしてきて、最後の方を読むころには、最初にどんなことが書いてあったかわからなくなるんだから仕方ないじゃないか。かといって数学が得意なわけでもないから、まずい状況なのである。
「最初から全部読もうとしないで、読みながら問題を解くのよ。あと、国語はパズルだから」
孝志にそうアドバイスしたのは、国語の成績では学年でも常に五番以内をキープするクラスメイトの藤村美帆子だった。国語がパズルだなんて、ついに孝志には理解できなかったことだが、そのアドバイスを受けた二週間後に藤村美帆子の彼氏となった隣のクラスの佐々井にはどうやら理解できたらしかった。
佐々井と孝志は一年のときに同じクラスで、苗字が「さ」同士名前の順では前と後ろだった。だが、佐々井の常に前を向いているところがどうも苦手で、アドレスの交換はしたけれど、結局あまり仲良くはならなかった。だが、藤村美帆子のタイプは佐々井のような人間らしい。
思い出して孝志は少々憂鬱になった。もちろん、孝志は美帆子に告白どころか、自分の気持ちを悟られないよう必死だったのだから、そもそも鬱になる資格さえ無いのかもしれない。対して佐々井は、己の気持ちを押し隠しもせずガンガン美帆子にアピールしていたが。ああいうがっついてるのって、みっともねえよ。そういって木原と笑っていたのが、つい昨日のことのように思える。なんだよ、結局笑い者になったのは、俺の方じゃねえか。
自分は、これからもそんなふうにチャンスをフイにして生きていくんだろうか。夏休みにあれだけ頑張った勉強も、本当の本当の本当に頑張ったのかと問われれば自信が無い。結局、自分という人間はその程度のヤツなのだろう。けれど、だからといってここぞというときに一歩踏み出す力を出そうとは、孝志には思えなかった。
ひと駅分歩いて、家に辿り着く。1LDKの小さな部屋。けれど風呂はついているし、住人は互いに干渉し合わないし、ひと駅歩けば安いスーパーはあるし、住めば都とまでは言わないがまあまあいい所だ。前に父と母と三人で住んでいたのは持ち家の住宅街だったけれど、今から考えればあそこでの暮らしは誰も彼もが仮面を被っていた。それに比べれば、ここでの暮らしは気楽だった。
制服を着替え、ベランダの洗濯物を取り込んで、スーパーの袋から買ってきたものを取り出す。冷蔵庫からカレーに必要な材料と、玄関に放置したままの段ボールからじゃが芋を適当に見繕う。
父親はあれからどうしているか、考えないわけじゃない。だが、母は父など最初からいなかったように振舞っているから家では口には出せない。かといって木原にそんなことを持ちかけるわけにもいかない。掲示板やブログに吐き出してみようかとも思ったが、生活費を切り詰めるためにインターネットは引いてないし、携帯のパケット定額プランも外してしまった。だから父のことをふと考えることはあっても、それが孝志の口から出ることはない。そのうち段々、父のことを考える頻度も減って、いつか記憶から消えていってしまうのだろうか。ちょっと寂しいと思うけれど、一方でそれならそれで仕方ないとも思える。
父は母に対してはどうだったか孝志の知るところではないが、孝志に対してはごくごく普通の父親だったように思う。休日はごろごろするか接待でゴルフに出かけ、平日は仕事で夜遅くに帰ってくる、家で飲むビールと、車の洗車が唯一の趣味という、どこにでもいそうな普通の父親。とりたてて記憶に残るような思い出作りをしたこともなければ、暴力を振るわれたこともない。いるんだか、いないんだか、わからないような人。それが、父に対する孝志の印象だった。
でももう、あの人は父親じゃないんだし。
孝志は同じくらいの大きさに切り分けた野菜やらを鍋にぶち込んで、火にかけながら考える。父は、今夜どんな夕食を食べるのだろう。それとも、買ってきたもので済ませるのだろうか。
カレールーを入れれば、辺りに空腹を刺激するスパイスの匂いが立ち込める。孝志は心のなかで、ごめんなさい、とひと言謝ったあと、換気扇を回し始めた。
母は今日も遅い。だから夕食は孝志ひとりだ。カレーができるまでに、英単語のひとつでも覚えればいいのだろうけれど、帰り際に返却された模試結果が詰まっていることを思えば、鞄を開けたいとは思わなかった。
「あちー」
最近涼しくなってきたとはいえ、火の前に立っていてはまだまだ暑い。孝志はティーシャツにぱたぱたと空気を送りながら、冷蔵庫の三ツ矢サイダーのプルタブを空けた。
カキンッという軽快な音とともに、泡のぱちぱちと弾ける音を聞きながら、孝志は一気にサイダーをあおった。