宵のあけぼし
いつも通り、孝志はひとりきりの夕食を終えたあと、風呂に入ったあとだらだらとテレビを見ていた。バラエティ、歌番組、ドラマ……。どれも興味を引かれるものがなく、コマーシャルのたびにチャンネルを変えていく。そうやっていよいよ見るものが無くなった頃、孝志は気が乗らないながらも鞄を手元に引き寄せた。国立に受からなければ、浪人する金も無いだろうから、就職だ。けれど就職活動をしているわけでもないからフリーターか。母子揃ってそれでは、母親にラクをさせてあげられない。だから、何が何でも大学には合格しなければ。そう頭ではわかっているし、真剣に考えている。が、今はどうしても気が乗らないのである。けれど、そんな甘えたことを言える身分ではない。
せめて明日のリーディングの予習だけでもしておかねば、と鞄を漁り、教科書を取り出す。それから電子辞書と、ノートと……と、そこでくしゃりとした感触を手のひらに感じた。孝志は、感じなかったふりをして筆箱を取り出した。
そのとき、ドアの向こうから、アパートの階段を昇ってくる足音が聞こえた。安アパートの金属製の玄関扉は、外の音をダイレクトに伝えてくる。
足音はふたつ。どこの部屋の人だろう。
まあ、俺にはカンケーないけど。そんなことを思いつつ、英文との睨めっこを開始したときだった。
「ボロアパートでごめんねえ、でも家賃だけは安いのよ、あははは」
かん、かん、かん。安っぽいコンクリートの音を鳴らしながら、声の主が笑い声とともにアパートの二階に上がってくる。
聞き間違えるはずがない。
母の、声だった。
母はどうやら、誰かをつれてきたらしい。
しかも、その相手は。
「本当だ、こりゃあかなりアンティークなアパートだ」
「やだ、アンティークだなんて。悟が言うと何でも素敵に聞こえちゃうわね」
「だってそこにエミちゃんがいるから」
「やだもう。こんなおばさんに世辞言っても何も出やぁしないわよ」
「何言うのさ。エミちゃんがいるじゃないか」
ほんの十数秒のことが、まるで数時間のように思えた。
落ち着け、俺。
母の会話の相手は……どう考えても、男の声だった。
それも、幻聴でなければ、おそらく、ただの友人というには濃すぎる関係。
いや、でも、単に気障な奴かもしれないし、と孝志は茫然自失となりながらも、懸命に頭を働かせる。だがその可能性は低かった。壁の時計を見やれば、時刻は既に十一時を過ぎている。こんな時間に、子供のいる家にただの友人である異性を連れてくる女性がいるはずがない。それくらいのことは、いくら孝志だってわかる年頃だ。
おいおい母さん、何考えてんだよ。っていうか、家には俺という息子がいるんだぜ!? あの足音、どうか家の前で止まりませんように。きっとこのアパートには母親に似た声の女性が住んでいるに違いない、それで、その女性が恋人を自分の部屋に連れてきたんだ、きっとそうに違いないんだ。孝志は真っ青になりつつもそんなことを考えて、必死に己を落ち着かせようとする。
だが、足音はやはり孝志いる部屋の前で止まったのだった。
「ここ、ここがそうよ」
母の嬉しそうな声がする。
おい、まさか部屋に入れるんじゃねえだろうな。
孝志のその考えは的中した。
「孝志ー、ただいま。さ、入って入って」
母の枝美子は合鍵で中に入ってくると、外に向かって声をかける。
ほどなくして、にょっきりと背の高い男が佐伯家の門をくぐった。
「お邪魔します。きみが、孝志くんか」
おい……母さん。これなんて冗談だよ。
唖然として声をあげることのできない孝志の目の前で、枝美子はてきぱきと男を部屋へ迎え入れる準備を整える。
コンロの鍋を覗き込んで、枝美子は歓声をあげた。
「お、カレーじゃない。おいしそう、しかもチキンカレー。よかった、これなら悟の分もありそうだね」
「は!?」
しかし枝美子は唖然とする孝志には目もくれず、悟というらしい連れの男性に声をかける。
「悟、ご飯食べてってよ。って作ったのはあたしじゃなくて孝志だけど。あ、この子が孝志ね。現在大学受験生。高三」
男はまるで自分の家のようにジャケットを玄関脇に吊るすと、綺麗な笑みを孝志に向けた。
「こんばんは、孝志くん。枝美子さんとお付き合いさせていただいている、芳川悟といいます。今後ともよろしく」
そう言ってにっこりと微笑んだ芳川悟は、どう見ても、孝志とそう年齢が違うとは思えない、若い男だった。