宵のあけぼし
宵のあけぼし はじまり
孝志は返ってきた模試結果を見て、溜め息をついた。
夏休み、あれだけ毎日頑張ったというのに、成績も順位も夏休み前とそれほど変わっていない。大好きなプレステも封印して相当勉強したつもりだったけれど、同じように他の受験生も頑張っていたらしい。自分では手ごたえを感じていただけに、ショックも大きかった。つくづく、嫌になる。
嫌なものにはさっさと蓋、とばかりに、孝志はもらったばかりの模試結果を鞄につっこんだ。つっこんだときに、ぐしゃっと紙がしわくちゃになったような音がしたが、どうせ何度も見るもんじゃない。孝志は直そうとも、ファイルに入れようとも思わなかった。これがSやA判定ばかりの結果ならば机の前に貼って眺めてにやにやしただろうが、あれだけ頑張ったにも関わらず結果はDやE判定ばかりで最悪だった。きっと、もう見ることもないだろう。
「おい佐伯、結果、どうだったよ?」
後ろの席の木原が肩を叩いて話しかけてくる。
「別にフッツー。木原は?」
もう模試のことなんて忘れたいんだけど、と思いながらも、答えないわけにはいかないので平静を装って振り返る。
なるべく、模試結果を悟られないように。
木原は、夏休み、孝志が図書館通いをしていたことを知っている。それなのに模試の結果が芳しくなかっただなんて知られるのは、さすがに恥ずかしかった。
「俺? 俺も普通だよ。まあ高い授業料出して塾行っただけのことはあったけどよ、そこまで良かったわけじゃねえし、母さんこれじゃあ納得しねえだろうなあ」
あーやべえ、このままだと部屋の漫画、全部売られちまう。
木原はまるでこの世の終わりのように頭を抱えている。
話を聞きながら、木原の手元の判定結果がちらりと見えた。
H大学経済学部、判定C。
孝志はE判定だったところだ。
CとEは2つしか違わないが、その差は大きく異なる。
Cというのは、大体全志望者の真ん中かそれより少し下、まあ猛勉強すれば合格ラインに届かないこともない、という位置なのに対し、E判定というのは、いわゆるドベ。上限は決まっていても下限はどこまでも落ち続ける、いわば見込みないから志望校変えたほうがいいよ、というランクなのだ。
これがまだ夏休み前なら挽回のチャンスもあっただろうが―――そう思って、孝志はこの夏、猛勉強したのだ―――しかし、結果は夏休み前と変わらずEのままだった。夏休み前は木原だって同じEだったくせに、たかだか塾の夏期講習に行ったか行かなかったかくらいで、こうも差が開いてしまうものなのだろうか。やっぱり自分も、塾に行ったほうがよかったんだろうか。
だが孝志はすぐさま思い直す。塾に行けるだけの金が家にあるなら、孝志が嫌がってでも母親は塾に入れたはずだ。それが無いから、孝志は夏休みを図書館で過ごすことになったのだ。
孝志はいわゆる母子家庭というやつだった。
といっても、幼い頃から片親だったわけではなく、そうなったのは半年前のことだ。桜がちょうど、蕾をつけ始めたころだった。
孝志の両親は半年前の春の初めに離婚した。もう何年も冷え切った関係を続けており、それでも孝志が高校を卒業するまでは、と仮面夫婦を装うつもりだったらしいのだが、ついに耐え切れなくなったらしい。
孝志は両親の仲が悪いことは知っていたが、あの日初めて、髪を振り乱して泣き叫ぶ母を見た。そんな母に冷たい眼差しを向ける父を、初めて見た。そこにいたのは、自分の知らない大人の男と女だった。まるで自分の両親じゃないみたいだと思ったのは、今でも覚えている。
それから程なくして、両親は離婚した。
家族というのは、こうも呆気なく他人同士になれるのだとそのとき知った。
孝志は、母に引き取られることとなった。母子二人でそれまで家族で住んできた家を出て、都内に小さなアパートを借りた。
父からの養育費の振込みはあるが、それだけでは生活していけない。母は生活保護で国に頼るのだけはごめんだ、と言い、程なくしてパートに出るようになった。朝早くから、夜遅くまで、都心の駅に併設された総菜屋でコロッケを揚げている。不況のせいで時給はそれほど高くなかったが、たまに余り物を分けてもらえるところが良いらしい。
もうおばさんだからこんな仕事しかないのよ、仕事があるだけありがたいと思わないとね、孝志には苦労かけるけどごめんね、二人で頑張ろうね。そう言って笑ったときに、母の目尻に皺ができているのを見つけ、孝志のなかに、言い知れようも無い感情が込み上げてきたのだった。母が、小さく見えると思った。ああ、もう俺は、いつまでも護られたままの子供でいちゃあいけないんだ。今度は俺が、母さんを護ってやらなきゃ。
そう思って、この夏は図書館に通い倒して、成績を上げると己に誓ったのに。
その結果がこのザマだ。
結局、高い金を投資して塾に通った木原に随分と差をつけられてしまった。
そんな生活だから、今の孝志に私立という選択肢は無い。一人暮らしという選択肢も当然ないから、地方の国立も難しい。奨学金を視野に入れたとしても、入学金やらもろもろのことを考えれば国立、それも都内の大学であることは必須だった。
しかし、都内の国立大や都立大は、レベルが高いのである。さすが、日本の首都というだけあり、全国から学生が集まってくるのだ。それだけ、ハードルも自然と高くなる。
ちぇ、これだから都市集中型の日本はだめなんだよ。
孝志は公民で覚えたばかりの言葉を使って心のなかで悪態をついた。
「なー、孝志ー。模試結果にへこんだ俺を慰めるために、放課後カラオケ行こうぜー」
「悪い、俺、今日夕飯当番だから」
その模試結果でへこんだとか、俺に謝れ、と思いながら孝志は返す。不機嫌が思わず声に滲んでしまった気がする。
「そっかー、夕飯当番じゃ仕方ねえか」
当然木原は、孝志の両親が離婚したことを知っているが、そのことを他の人間のように不幸がったりはしなかった。その点は気兼ねしなくていいから、助かる。
たかだか成績のことくらいで苛々しちゃって、ちょっと悪かったかな。
先刻苛立ちをぶつけてしまったことを反省する。
孝志は罪滅ぼしも兼ねて、今度の土曜日なら暇だからカラオケに行こうと約束した。小遣いはピンチだったけれど、木原という友人を失いたくはなかった。