赤い瞳で悪魔は笑う(仮題) ep2.姉妹
「そして、そのときに初めて、自分の記憶が失われているということを、『他人』に教えた……」
――――先生、このハナシを人にするのは、先生が初めてなんです。
――――お母さんとお父さんには、……内緒に、しておいてくれませんか?
――――実は。
「ハイラちゃんは、とても不安そうに、自分からは男の子が『暴力を振るわれていた』間の記憶が、すっかり失われてしまっていることを、僕に明かしたよ。そして、こう言った」
――――私は、罪人なんです。
――――罪のない人に、罪を着せた。罪のない人に、傷を負わせた。
――――私は、罰を受けなければいけないんです……。
「そう、涙を流しながら。まだたったの五歳の、いたいけで無邪気で純真で素朴な少女だ。それなのに、彼女にはもう、一人では償いきれない『罪の意識』が存在していた。罪悪感と自分自身の記憶への恐怖に、縛り付けられてしまっていた……。僕は悲しかったよ。まだ幼い女の子が、そんな重荷を背負っているということも、彼女がこれまで誰にも相談しなかったということも」
だって、そうだろう?
誰にも相談しない、という選択は。誰も頼らず誰も信用していない、という前提が必要だ。彼女は、その前提条件の下、自らの選択を行った。
それは、即ち。
「……彼女は、『朱露』という片割れを失ってから僕という『他人』に出会うまで、誰のことも頼らないで、誰のことも信用しないで、生きてきたんだよ。僕には、それがとてつもなく悲しかった。哀しかった。まあそれは、裏を返せば、ハイラちゃんが僕を信用して、頼ってくれている、ということにもなるし、それは勿論嬉しかったけれど……」
それでも。その事実は、悲し過ぎた。まだ、たったの五歳なのに。実の親にさえ信をおかず、頼ることもせず……。
『彼女は、事実上たった一人で、生きてきた』ということなのだから。
「初めに言ったよね。朱露と灰良は、二人だけの世界で生きていた……と」
初めから閉ざされていた、世界で二人だけの世界。他からの干渉を不要とし、他への干渉を無用とする。二人は互いにたった一人の存在であり、いつでも鏡と暮らしていた……。
「朱露を失った世界で……ハイラちゃんはけなげにも、たった一人で生きてきたんだよ」
それが、どういうことなのか……何となくだが、分かるような気もする。
結局。
咲屋は、閉ざされた輪の中から、一人で抜け出すことが、出来なかったのだ。他からの干渉を不要としていたというのに、早倉井先生という助け舟が来てくれないと、抜け出せなかったのである。いや――……
彼の助けを得ていても、
咲屋は、抜け出せなかったのだ。
罪を告白することは、確かに心の荷を軽くすることかもしれない。けれど。
話したところで、その罪が消えてなくなるわけではない。
「ハイラちゃんはそうやって、僕に自分の罪を告白した。でも、それで『罪の意識』が消えるわけもない……」
――――先生。私は、どんな罰を与えられるべきなんでしょうか?
「彼女は、いつしか自分が幸福になってはいけないのだと、そう信じるようになっていった」
――――私みたいな罪人は、皆と一緒に笑ってはいけないんですよね、先生。
「僕は勿論、そんなことはない、自分をもっと好きになろうとしなさい、と諭したよ。でも、彼女は聞き入れようとしなかった。ハイラちゃんは何より優しくて、何より真面目で、そして何より責任感が強かった」
――――私は、
「僕は、あの子の力になってあげられなかった……」
――――生きていてはいけないんです、先生。
「あの子は、僕を信用し、頼ってくれた。でも、僕はそれに見合うだけのモノを与えることが、十分にできなかったんだよ……」
自嘲気味に笑う先生。その目は遠い記憶を探り、俺たちを前にしていることすら、忘れているようでもある。
――…………。
少しの間、沈黙が降りる。
早倉井先生の回想は途切れたわけではなく、ただ言葉を――……自分の記憶を適切な表現で表すことの出来る言葉を、探しているようだった。まるでそれは、誰かを傷つける事を恐れるかのように。
まるで、
自分自身を傷つける事を、いや、自分が傷つく事を、恐れるかのように。
俺と紅也は、その沈黙の間、物音一つ立てずにただひたすら待った。
先生の口が開くのを。
その口から、出てくる言葉を――物語を。
作品名:赤い瞳で悪魔は笑う(仮題) ep2.姉妹 作家名:tei