ソラニワ
一歩下がって礼をとると、瑞彦はすばやく踵を返した。
さっさとこの部屋を出たかった。桐生の毒で息が詰まりそうだ。
それに……。
瑞彦は密かに唇を噛んだ。
魔法院は、背反する者に容赦しない。
院が生きた人間をそこまでぞんざいに扱うとは思えないが、桐生の話を聞く限りでは、背反者として捕まった場合の黒瀬の処遇は、かなり厳しいものになるだろう。
だとすれば、選択肢は二つ。
どちらにせよ、一刻も早く黒瀬を見つけなければいけない。
そして——。
「まさかとは思うけど、彼を逃がそうなんて考えないようにね」
足が止まる。振り返らなくてもわかる、毒々しいその笑顔。
「ここだけの話、国外へ出られるのが一番困るんだ。空港は未認可のものも含めてすでに部隊を配備してある。他国へ渡すくらいなら、いっそその場で……ってね」
死、という一文字が、ひやりと首筋を撫でた。
電話が三たび鳴り出す。軽い舌打ちが聞こえた。
「うるさいなあ。どうせくだらない連中からのくだらないお小言だろうに」
桐生が二本の指でハサミを作り、ちょん、と空を切る。途端に、かすかな余韻を残して電話のベルが途切れた。絨毯にぽとりと落ちたコードは、鋭利な刃物でそうされたかのように、きれいに切断されていた。
「みんなさっさと死ねばいいのになあ」
本気とも冗談ともつかない呟きを聞き流して、沢木は部屋を辞した。
扉が完全に閉じるのを待って、ふ、と息をつく。
ガラス張りの廊下は人影もなく、しんと静まり返っていた。電力をふんだんに使った廊下は、真昼のように煌煌と輝いている。
ガラス越しに広がる星空を見上げる。深く透明な青を、何層も重ねたような黒だ。よく似た色の瞳を思い出して、瑞彦はまぶたを伏せた。
できるか、自分に。
黒瀬を連れ戻すことが……いや。
黒瀬を救うことが。
——無理ですよ——。
感情を伴わない静かな声音がそう告げる。黒髪が風に舞っていた。
——あなたとおれは、違いすぎる——。
つい数週間まえのことだ。抜けるような青空が鮮明によみがえる。
黒瀬はあの時すでに、こうなることを知っていたのだろうか。
「沢木教士!」
廊下の向こうから少女が駆け寄ってくる。見覚えのある少年も一緒だ。
瑞彦は臓腑が重く沈んでいくのを感じた。
「笹原」
「いったい、どういうことですか。黒瀬くんは——……」
白い頬がいつもよりさらに白い。一見落ち着いてはいるが、揺れる声音からその動揺が伝わってくる。
笹原小雪は、小さな背を伸ばしてまっすぐに瑞彦を見上げていた。
色素の薄い瞳が、必死で真実を求めている。
なぜ、どうして。彼はいま、どこに。
いまだあどけなさの残る少女の、まなざしの強さに圧倒される。
あいつはいつもこんな目で見つめられていたのか。
嬉しそうに黒瀬を見上げる横顔を思い出して、瑞彦はなんとも言えない気持ちになった。
小雪はどこまで知っているのだろう。
「黒瀬に何があったんですか」
小雪の後ろから、長身の少年が訊ねてくる。こちらも険しい顔だ。黒瀬と一緒のところを何度か見たことがある。名前は確か……北見聡太。
手間が省けたな。
緊急召集をかけようと思っていた二人を従えて、瑞彦は歩きながら手短に状況を説明した。
黒瀬が『ハコ』から“ヒトガタ”を連れ出したこと。
軍が正式な捕縛部隊を派遣するまえに、少人数で説得を試みること。
「……黒瀬はなぜ“ヒトガタ”を?」
「その“ヒトガタ”とは、兄弟のような仲だったらしい」
『貧困街』で、とそっけなく付け加える。北見は一瞬困惑したような表情を浮かべ、けれどすぐにそれを隠した。
「……黒瀬がその“ヒトガタ”とどんな関係だったか知りませんが」
ひとつひとつ言葉を選ぶように、北見が言う。
「だからって“ヒトガタ”を連れ出すなんて、正気じゃない」
自殺行為だ、と苦々しく吐き捨てて、北見は眉をひそめた。
「笹原」
押し黙ったままの小雪を振り返る。どこか遠くを見つめていた瞳が、瑞彦へ向けられた。
「黒瀬と親しかった人間を他に知っているか?」
わずかに思案した後、小雪が力なく首を振る。栗色の髪が頬のあたりで揺れた。
「知りません。いない、と思います……たぶん」
「笹原が言うなら、確かです」
自信なさげな小雪の言葉を、北見が後押しする。けれどそれを拒むように、小雪は再び首を振った。
「いいえ、わかりません。なにも知らないんです。彼のことは、何ひとつ……」
小雪が小さく笑う。痛々しい笑顔だ。
記憶にはないその表情に、思わずどきりとする。
いつからこんな顔をするようになったのだろう。
時の流れに感嘆しながらも、いまだに小雪を小さな女の子として見ている自分に苦笑いする。
「沢木教士?」
「いや、なんでもない」
今は懐かしさに浸っている場合ではない。
瑞彦は表情を引き締めた。
「明朝3:55三番ゲートに集合。4:00より捜索を開始する。装備はL4……戦闘になる可能性もある。準備は怠らないように」
「戦闘……」
小雪の表情が曇る。北見が声を荒げた。
「戦闘って、黒瀬とですか?」
「あくまでも可能性だ」
言いながら、瑞彦は不安を覚えた。
そう、あくまでも可能性だが、ゼロではない。
黒瀬が攻撃を仕掛けてくる可能性は、十分にある。
幼い黒瀬の瞳を見れば、それは明白だった。
そしておそらく、彼は強い。
学科も実技も、目立って優秀ではなかったけれど、彼はそういった院の定規にはまらない、もっと実践的な術に長けている気がする。
計り知れない能力を秘めた魔法士。
黒瀬が小雪を傷つけることはないにしても……いや、その可能性もなくはないのだろうか。
わからない。黒瀬路音の輪郭が、どんどんぼやけていく。
「彦ちゃん」
呼ばれて顔を上げる。そこには久々に見る、幼なじみの顔があった。
あの頃のままのようで、そうではない面差しが、今は泣きそうに歪んでいる。
「路音は、大丈夫よね?」
立場や建前、そんな余計なものを取り払った、シンプルな問いかけ。
黒瀬への想いが詰まったそれは、血が通っていて重みがあった。
黒瀬は、大丈夫だろうか。
「おれにもわからない」
正直に首を振る。切実なまなざしに、気休めの嘘はつけなかった。
「わからないけれど、これは彼が望んだことだ。どんな結果になったとしても、黒瀬は……」
言いかけて口をつぐむ。
——苦しい——。
膝をつき、うなだれて、黒瀬は確かにそう呟いた。体の奥底から漏れた呟きは、いまだに耳について離れない。
どんな結果になったとしても。
黒瀬にとっては、ここにいるよりマシなのではないか。
そんな言葉を呑み込んで、別の言葉にすり替える。
これ以上、小雪を傷つけるわけにはいかない。
「黒瀬もバカじゃない。何か考えがあるんだろう。とにかく、話をするためにも、一刻も早く彼を見つける必要がある。明日は走り回ることになるから、今のうちに少しでも体を休めておくように」
細い肩を掴んで、いいな、と念を押す。幼い頃よくそうしたように、少しかがんで目線を合わせた。