ソラニワ
003:魔法院
「黒瀬路音、十五歳。ぼくの研究室に所属している一等錬士だ……当然知っているね?」
大きなモニターに黒髪の少年が映し出される。今より少し幼い。
夜色の瞳からは、何の感情も読み取れなかった。
当然だ。ここに映っているのは、黒瀬路音の表面だけなのだから。
そして、今まで自分が見ていたのも。
「その彼が、本日11時32分頃『ハコ』に侵入し、“ヒトガタ”一体を連れ出して現在も逃亡中だ」
沢木瑞彦は、黒瀬の画像と彼にまつわるデータからゆっくりと目を離した。こんな記述を読んだところで、彼のことをかけらも知ったことにならない。
「それでね、沢木くん」
淡く透けるモニターの向こう側で、男がにっこりと微笑む。
「本格的な捕縛部隊を出すまえに、自ら院に戻るよう、まずは何人かで彼を説得してみようと思ってね。その役を、きみに頼みたい」
モニターの隅に着信を告げる文字が現れ、わずかに遅れて電話のベルが鳴り出した。ダイアル式のずいぶん古い代物だ。ディジタル信号をわざわざ変換して電話機に繋いでいるらしい。酔狂なことだ。それがこの男の嗜好なのだろう、木製のデスクや革張りの椅子、重厚なカーテンなど、部屋全体が懐古的な雰囲気でまとめられている。
生の素材を使った部屋は、最新の合成素材で整えられた部屋よりも壮麗で美しく、どこか威圧的でもあった。
けたたましい金属音を少しも気に留めずに、男は話を続ける。
「人選はきみに任せるよ。ぼくには彼の交友関係はよくわからないから。ただ、きみは彼と一番親しいように見えてね……今回のことについて、なにか思い当たるふしはあるかい?」
「いえ……なにも」
「だろうね」
微細な光の粒子が流動し、画像が展開する。大きなモニターいっぱいに、今度は拘束具をつけた少年が映し出された。
うなだれていた少年がふいに顔を上げる。動画だ。
見覚えのある顔立ちと、夜色の瞳。
今よりもずっと幼い、黒瀬路音。
しかし、決定的な何かが違う。
“ソラを返せ”
幼い黒瀬が低く唸る。
目だ、と瑞彦は思った。目が燃えている。
黒く深く、そして静かに。
触れればきっと、痛みを感じる間もなく、肉をそがれる。
それほどの強さで、夜色は燃えていた。
憎悪。
強いて名付けるなら、そんな名前だろう。
モニターの向こうで、男が笑う気配がした。
「かわいいだろう?彼が保護された時の映像だよ。“ソラ”というのが、連れ出した“ヒトガタ”の名前だ……ああ、彼が『貧困街』出身というのは知っていたかい?」
「いいえ」
“ソラを、返せ……!”
鮮烈な意志が鼓膜を揺さぶる。心臓を掴まれるような声だ。
黒瀬は、こんな声を出すのか。
「『貧困街』で保護された時、彼は“ヒトガタ”と一緒にいた」
「……血縁者ですか?」
「いや、データ上は赤の他人だよ」
画像が再び展開する。
金色の髪、空色の瞳。まだあどけない少年だ。
これが“ソラ”。
なるほど、黒瀬とは少しも似ていない。
「彼はなぜ“ヒトガタ”を?」
「さあ……『ノラ』は群れるからね。兄弟とでも思っていたんじゃないかな。ははっ、笑えるね。魔法使いと“ヒトガタ”が兄弟だなんて。今頃、殺しあっているかもしれないね」
モニターが消える。隔てるものを失って、男のうすら笑いが直接目に刺さった。
男はいつでも笑っていた。この男から笑顔がはがれたところを見たことがない。やわらかな物腰と柔和な顔つき。温厚で人当たりがいいと多くの院生は思っているようだが、それが間違いであることを瑞彦は知っていた。
男からは漏れていた。笑顔の向こう側にあるものが、どろどろと。
男はそれを隠そうとはしていなかった。張りついた笑顔は、彼の本性を覆い隠すためのものではないのだ。だから少し目の利く者であれば、たいていが彼の不穏さに気がつき、困惑する。
美しい花から突然這い出てきた毒虫に驚き、顔をしかめるように。
そうして人が動揺するさまを、男は楽しんでいるようだった。
男は、今も笑っていた。
「ぼくの個人的な伝手に話をつけておこう。“東”のね。身を隠すならあちら側だろう。たぶんどこかしらに引っかかるはずだ。ああ、このことに関しては他言無用で頼むよ。あまり自慢できる友人たちではないからね。必要な情報は、ここに……」
男が薄いチップを差し出す。受け取ったそれを携帯用端末に差し込むと、無機質な瞳と燃える瞳が手の中で重なった。
ソラを返せ。
黒瀬、これがおまえの正体か。
「飛空を使ったそうだよ」
思わず顔を上げる。飛空は院でも数人しか使うことができない、高度な技術だ。
黒瀬が、飛空を。
ありえない話ではない。黒瀬なら、島ひとつ浮かすくらいできるような気がする。そのくらいの意志を、彼は持っていた。
唇の端がわずかに歪む。これは自嘲の笑みだろうか、それとも……。
「能ある鷹は爪を隠すと言うけれど、ふふっ、彼は爪どころか牙まで隠していたようだね。ついでに毒まで仕込んであるんじゃないかと気が気でないよ」
男がゆったりと手を組む。再び電話が鳴り始めた。
「できれば穏便に解決したいけれど、彼が素直に従うとは思えないからねえ。きみたちが説得したとしても、聞き入れてくれるかどうか。こちらが把握していない能力も持っているようだし、最終的には、多少の武力行使もやむを得ないだろう。きみも知っているとおり、彼は貴重な天然の魔法使いだ。院に従う意思がなくても、生きてさえいれば、彼には十分使い道がある……いや、たとえ死体でも、研究材料として保存しておく価値は十分あるよ」
さも楽しそうに男が笑う。
使い道。研究材料。保存。
どれも人に対して使われるべき単語ではない。
「……桐生導師」
「なんだい?」
「黒瀬が説得に応じて院に戻った場合、彼の処遇は……」
桐生が中指で眼鏡をくい、と上げる。
「そうだねえ……何らかの処罰はあるだろうけど、これからも院に忠誠を誓うというのなら、悪いようにはしないよ。行動制限や思想矯正、魔力制御装置の埋め込みだとか、生活管理の厳重化は免れないだろうけど、さっきも言ったとおり、彼は貴重な人材だからね。ある程度の権利と生活は保証する」
「では、院への忠誠を拒んだ場合は?」
「階級及び一切の権利の剥奪。その後の処遇は長老会の判断によるけど、おそらくは院で研究に“貢献”してもらうことになるだろう」
「貢献……ですか」
「死ぬまでね」
桐生がにっこりと笑う。
おぞましい笑顔に、瑞彦は密かに身震いした。
「さて、他に質問はあるかい?」
「一緒にいる“ヒトガタ”は」
「別の部隊が処理する。きみたちは“ヒトガタ”には手出しせず、黒瀬くんの説得に専念してくれればいいから」
あどけない空色の瞳を思い出す。手の中の端末にも保存されているはずだ。
まだ十二、三歳ぐらいの子どもだった。
殺すのか。
いや、騙されるな。奴は“ヒトガタ”だ。
人の形をしているだけの、化け物。
「“壁”の検問は強化してある。何かあれば、直接きみのところへ知らせがいく手筈だ。急な動きがなければ、準備を整えて明朝より捜索にあたってくれ」
「わかりました。失礼します」