ソラニワ
この人が笑ってくれるなら、なんだっていいような気がした。
「まだ第三区か……地下水路から四区に出て……うん、大丈夫だな」
腕につけた端末を操作しながら、少年が肩をすくめる。目の下のくまはだいぶ薄れていた。
「実はちょっとヘマってさ。おまえ助けるの、本当は今日じゃなかったんだ。不正アクセスがバレて捕まりそうになったから、そのまま成り行きで……ま、色々と段取り悪いけど、勘弁な」
弾みをつけて少年が身を起こす。こきこきと肩を鳴らし、大きく伸びをした。
「うわ、頭じゃりじゃり」
あちこちについた砂を払いつつ、少年が腰を上げる。
「よし、じゃあ行くか」
「あ……ちょっと待って!」
立ち上がりかけた少年を、ソラはあわてて引き留めた。
大事なことを忘れていた。まだ言っていないのだ。
記憶がないということを。
なにも覚えていないということを、まだ言っていない。
言わなくちゃ。
口を開きかけて、ソラはためらった。
「どうした?」
先を促すように、少年が首を傾げる。
夜色の瞳をまっすぐに見れないまま、ソラは黙り込んだ。
どうしても言葉が出ない。
怖かった。
少年は、きっとがっかりするだろう。
苦労して助け出した“ソラ”の中身がからっぽだと知ったら。
あなたのことをなにも覚えていない、と言ったら。
たぶん悲しむだろう。もしかしたら、怒るかも知れない。
がっかりする顔を、見たくなかった。
「ソラ」
少年がソラを呼ぶ。静かに澄んだ声音だ。
瞳の色に似て、深い夜空を思わせる声。
すべてを許すような。まるごと包み込むような。何もかもを許容するような声で、少年はソラを呼ぶ。
少年に名を呼ばれるたびに、ソラは自分の存在が濃くなっていくのを感じた。
ぼくも、呼べるだろうか……そんな風に。
「大丈夫だよ」
冷たい手のひらが頬を包んだ。少年が目線を合わせてくる。
「今度こそおまえを守ってみせる。どんなことがあっても、おれたちはずっと一緒だ」
だから大丈夫と、少年が繰り返す。
その言葉は不思議と的を得ていて、ソラを勇気づけた。
「どんなことがあっても、ずっと一緒……」
一音一音を噛み締めるように呟いて、ソラは大きく息を吸い込んだ。
「……なまえを」
「名前?」
「教えてほしいんです。あなたの……」
「あなたのなまえを」
あなたがぼくを呼んでくれるように。
ぼくは、あなたの名を呼びたい。