ソラニワ
002:きみの名は
「……いってえ……」
すりむいたひじをさすりながら、ソラはのろのろと身を起こした。
かたい地面の確かな感触。まばらに生えた木々は横からの強風でどれも奇妙な形に歪んでいる。林と呼ぶにはあまりにもお粗末だが、吹きさらしよりはいくらかマシだ。
切り立った崖の上、わずかに木々が茂る場所に、二人は着地した。
不時着……いや、墜落といったほうが近いかもしれない。
陸島の端ギリギリに建てられたあの施設を脱出してから、小一時間。二人を乗せた『支柱晶』は、陸島の側面……地上からは死角になる崖にそって飛んでいたが、少年の「もう限界」という一言で急上昇し、次第によろよろと勢いをなくして、これはもう地上にたどり着けないのではないかとソラを戦々恐々とさせながら、かろうじて地面のあるところに到達した。
派手に地面を転がったせいで体中があちこち痛む。すりむいたひざからは盛大に血が出ているが、ひどい怪我はなさそうだ。
足元にゴーグルが落ちている。少年がしていたやつだ。
ソラから数歩離れたところに、少年は倒れていた。
あおむけに四肢を投げ出したまま、ぐったりと動かない。
どくんと心臓が跳ね上がる。
「大丈夫ですか?!」
駆け寄ってその肩に触れる。細い肩だ。少年の唇がわずかに動く。何か言っているが、聞き取れない。
「……い……」
「いたい?どこが痛いんですか?!」
口元へ耳を寄せる。
「……ねむい……」
「は?ねむい……えっ?!」
少年はすでに寝息を立てていた。その寝顔は穏やかで、外から見るかぎり大きな怪我も見当たらない。
がっくりと全身の力が抜け、ソラはその場にへたり込んだ。
腕が小刻みに震えはじめる。ずっと『支柱晶』を握りしめていたせいだ。自分の意志とは無関係にぷるぷると痙攣する手のひらを握ったり広げたりしながら、ソラはぐるりと林を見まわした。
そういえば『支柱晶』が見当たらない。
消えてしまったんだろうか。現れた時と同じように。
手のひらに残る、ひんやりとしたガラスの感触。
あんなものに乗って、空を飛んだ。
まるでおとぎ話の魔法使いみたいに。
——魔法士が、なぜ……——。
男たちの言葉を思い出す。
“マホウシ”とは何者だろう。
ソラは目の前に横たわる“マホウシ”の少年を、改めて観察した。
少しクセのある黒髪に、透き通るような白い肌。彫りが深く、まつげが長い。とてもきれいな顔だ。美人、という言葉が真っ先に思い浮かぶ。男相手に“美人”という表現を使っていいのかどうかわからなかったが、なんとなく、この人にはそれが似あっている気がした。
華奢といっていいくらいの細身だが、弱々しい感じはしない。むしろ、線の細さにあり余る存在感が、少年の内から溢れている。
歳は、十五、六ぐらい。自分より少し年上だろうか。そもそも自分の年齢自体が定かでないのだけど。
この人と自分は、一体どういう関係なのだろう。
もしかして、兄弟だったりするのだろうか。
兄貴。兄さん。おにいちゃん。
口の中で呟いてみる。
「なんか違うなあ……」
どれも舌になじまない。
自分の前髪を引っぱってみる。光に透ける金色は、少年の黒髪と似ても似つかない。肌の色、骨格、髪の質、そしておそらく顔立ちも、自分と少年はまるで違った。
外見だけで断定はできないが、ただ漠然と、血のつながりはないように思えた。
けれど自分に向けられたまなざしは、とても近しい人のそれだった。
親子、兄弟、それに等しい大切な誰か。
少年が身じろぎする。薄いまぶたが少し震えた。黒いシャツの胸が穏やかに上下する。
頬にかかる前髪で隠れたところに、青あざが見えた。いまできたやつだろうか。
眠った人間をただ眺めるのもさすがに飽きて、ソラは手持ちぶさたにきょろきょろとあたりを見回した。
吹きすさぶ風のほうへ顔をむけると、木々のむこうで地面がぶつりと途切れている。
大地の終わり。好奇心がむくむくと頭をもたげる。
地面の強度を確かめながら、そっと崖へ近づく。腹ばいになると、ソラは恐る恐る垂直の崖を覗き込んだ。
「う……わ……!」
どこまでも続く空と岩のコントラスト。遠くへ行くほどその境は白くかすんで曖昧になっていく。崖は内陸にむかってゆるくカーブし、その下には空と雲があるだけだ。
風のかたまりが前髪を吹き上げる。
「これが、大地の果て……」
陸島の端は地盤の脆いところが多く、たいがい立ち入り禁止になっている。頭上の空は見上げることができるが、陸の下に広がる空は飛空船にでも乗らない限り見ることはできない。『支柱晶』で飛んでいる時ならもっとよく見えただろうが、あの時は景色を楽しむ余裕はなかった。
頭ではわかっていたつもりでも、こうして実際に目の当たりにすると、言葉では表しきれない現実の強さに圧倒される。
本当に、浮かんでるんだ……。
「すごい……」
地面の端を強く掴む。いま自分は大地の端っこをつかんでいるのだ。
このまま激しく揺さぶったら、大地が揺れるだろうか。
ぐわんぐわんと揺れる街を想像して、ソラは思わずにやりと笑った。
少し身を乗り出す。遥か下にあると言われる『空ノ底』は、やはり肉眼では見えない。
「そこから落っこちても、今度は助けてやらないからな」
からかうような声音に振り返る。横たわったままの少年が、瞳だけをこちらに向けていた。
夜色の瞳が、いたずらっぽく光る。
「知ってるか?墜落して『空ノ底』に消えた飛空船が、何十年も経った後、上から降ってきたって話。ガッチガチに凍って、乗客は全員冷凍ミイラ……まっ、本当かどうかは知らないけどな。でも話どおりだとしたら、『神ノ庭』と『空ノ底』が繋がってるってことになる……それってすごいよな」
少年が両手を空に伸ばす。
「創世の空白期、失われた大地の行方……科学技術は日々進歩しているのに、世界はまだまだ謎だらけだ。なっ、この国を出たらさ、遺跡とかもガンガンまわろうぜ!」
少年が楽しげに笑う。無邪気な笑みだ。少年が一気に幼く見えた。
その笑顔にそぐわないくまが、目の下に黒々と浮いている。肌が白いせいか、少し目立って痛々しい。
どこか具合が悪いのだろうか。
「うう、寒い……!」
吹く風に身を震わせ、少年が薄いシャツをたぐり寄せた。
「あ……すみません、上着。返します」
「ん、いいよ別に。おまえマッパだし。返されても逆に困る。てゆうかおまえこそ素足で寒くないのか?」
素肌に上着一枚という格好で、ソラは首を傾げた。びゅうびゅうと吹きつける風はたしかに冷たいが、体はぽかぽかしている。
「大丈夫です」
「ふうん。見てるこっちが寒いけどな。そういえば昔から寒さ熱さに強かったもんなあ、おまえは」
“昔”という言葉に、どきりと胸が高鳴る。
いったいどんな“昔”だったのだろうか。
この人は、どのくらい“ソラ”を知っているのだろう。
昔のこと。“ソラ”のこと。少年のこと。
知りたいことがありすぎて、何から聞けばいいのかわからない。
そうだ、まずは記憶がないことを言わなければ。
「あ、の……」
口を開きかけて、ソラは少年の視線に気がついた。