ソラニワ
「西側でネットが使えるような高級ホテルは、エントランスに入るだけで『身分証』が必要なんだ。アクセスも見張られてる。でもこういういかがわしいホテルなら『身分証』もいらないし、これは映像用の受信専用機だから、わずらわしい仕掛けは一切なし。方法さえ知っていればいくらでも情報を引き出せる。ここはラブホの中でも最高ランクのところだから、建物のセキュリティーもわりといいし、金さえ渡せば“売られる”心配もないから、そこらの安宿より安全なんだ」
「“売られる”って?」
「密告だよ。どこぞの幹部が密会してたとか、逃亡中の奴が隠れてる、とかね」
ジインの指先が操作板の上を軽快に跳ねる。淡い緑に発光する文字が、羽虫の群れのように円盤上を旋回し始めた。
「おまえ、先にシャワー浴びてこいよ。使い方、わかるだろ?服は下着も全部、浴室の機械に入れてボタン押しとけば、出る頃にはきれいになってるから」
「……なんか、ずいぶんくわしいんだね」
よく来るの?と訊ねそうになって、あわてて口をつぐむ。さすがにそれは不躾だし、どんな答えが返ってきても困る。
でも、気になる。
さっきの男女がしていたようなことを、ジインもするのだろうか。
ゆっくりまわる二つの裸体。あまりにもあけすけで、ひどく滑稽だった。
ジインも誰かとあんなことを?
「……いやだな」
知りたいような、知りたくないような気がした。
クリーム色の浴室は真昼のように明るく、乾いていて寒かった。
脱いだ服を機械へぶち込み、言われたとおりボタンを押す。
冷たいタイルの上をつま先立ちで足踏みしながら、赤い取っ手をひねり、出てきた冷水に思わず悲鳴を上げた。しばらくしてからやっと出てきた熱いシャワーを、まずは頭から豪快に浴びて、浴室と体を温める。がびがびしていた髪や肌が、水気を得て今度はぬるぬるになった。あの機械に満ちていた液体の残りだ。唇を少し舐めてみると、しょっぱい味がした。
ボディーソープをよく泡立てて、体中をごしごしと洗う。
部屋側の壁は全面が大きな鏡になっていて、浴室のすべてを映し込んでいた。同じ部屋にもう一人、裸の人間がいるみたいで、なんだか落ち着かない。
もうひとりの自分と向き合ってみる。
金色の髪。青い瞳。
これが、ソラ。
平凡な見かけに、少しがっかりする。
ジインが持っているような、引力というか強さというか……そう、存在の密度みたいなものがない。
ぱっとしない、普通の少年。舞台の役名で例えるなら、街の子B、といった感じだ。
こんなんで、ジインを守れるだろうか。
「……あれ?」
守る?ジインを?ぼくが?
どうして、急にそんなことを思ったのだろう。
けれど、それはなんだかとてもしっくりくる気がした。
記憶を失う前、“ソラ”はジインをかばって竜に噛まれた。
ぼくだって同じだ。ぼくだって同じ場面に出くわしたら、同じことをするだろう。
だって、ぼくは“ソラ”なんだから。
ジインを守る。それはソラが“ソラ”であるためのひとつの条件のように思えた。
握った両手に力がこもる。
とりあえず、見かけだけでももう少し強そうに見せなければ。
しかめっ面をして、肩を怒らせる。やはり背が足りない。背伸びしたら、ふくらはぎをつりそうになった。
背丈は今後努力することにしよう。
強そうに見えるポーズをしばらく研究した後、せめて人相が悪くなるようにと、眉間にあらん限りのしわを寄せたまま、ソラはがしがしと頭を洗った。
全身の泡とぬるぬるをシャワーで流し、清潔なタオルにくるまる。
機械に入れておいた服は、自動で洗濯され、すっかりきれいに乾いていた。ここに来る途中で、ジインが買ってくれたものだ。大きなフードとポケットがたくさんついた、かっこいい上着。丈夫なザックと、替えの下着もある。かっこいいひも靴も買ってもらった。
ジインはまだホログラフの前に座っていた。円盤の上には、半透明のごつごつした岩のようなものが浮かんでいる。岩の表面には、ちかちかと光る小さな赤い点がいくつもちりばめられていた。
「それ、なに?」
「立体地図だよ、この国の」
拡大されていた画像が縮小する。クロワッサンを太らせたような、いびつなかたまりが現れた。
「これが鋼雪陸島。おれたちが今いるのはこのあたり……第四区だ」
ジインの指が島の真ん中あたりを示し、そのまま左へ滑る。
「この枠の中が第一区……議会や軍の重要機関が集中してる、国政の中枢だ。セキュリティーが厳しくて、限られた人間しか入れない。そのまわりが第二区。閥族や大企業なんかが集まっている。第三区はそれに従事する人間、第四区はそのまた下の人間……てな具合に、外側へいくほど貧乏度数が高くなる。それぞれの区域は“壁”できっちり隔たれていて、行き来するには『身分証』が必要だ」
「この溝は?」
「『虹ノ谷』……『彩色飴街』だ」
現在地から少し東、島をちょうど東西に二分して黒い亀裂が走っている。
「深い谷の両側に、鉄くずみたいな街がこびり付いている。この国を“西”と“東”に隔てる街だ。街自体も、同じように見えて両側では生活水準がずいぶん違う……いや、人間の種類が違う、のほうが正しいかな」
白い指先が、暗い溝から右へと滑る。
「ここが花柳街で、そのすぐ東が『裏』……花柳街の元締めがいる、この国で一番ヤバい地域だ。その下が『貧困街』のゴミ市場……おれたちが暮らしてた工場は、このへんだな」
ジインの指先が、クロワッサン右側の下方に触れる。ホログラフの粒子が歪んで、ゆらゆらと虹色の波が立った。
「ああ、そうだ」
ジインが襟首を探る。引っぱり出された細い鎖に、同じ形の鍵が二つぶら下がっていた。
「工場の鍵。二度と使わないだろうけど、一応渡しておくよ。まあ、お守りみたいなもんだな」
引っこ抜いた配線用の細いコードに通し、首から下げられるようにしてジインがそれを差し出す。鉛色の鍵が、ピンク色の照明に鈍く光った。
「なるべく別行動は避けるようにするけど、もしも突発的な事故やなんかで、お互いの居場所がわからなくなった時はこの廃工場で待ち合わせしよう。大体でもいいから場所覚えとけよ」
大きく伸びをして、ジインが立ち上がった。
「さ、おれもシャワー浴びてこようっと」
「ねえ、この赤い点はなに?」
地図のいたるところで赤い印が点滅している。百個以上はあるだろうか。
振り向いたジインが不敵に笑う。
「おれの手下だよ」
冗談めかした声音でひらりと手を振ると、ジインは浴室に行ってしまった。
ホログラフの前に座って、赤い点を眺める。それらは主に、『彩色飴街』に集中していた。
一体何の印なのだろう。ジインはあんな風に言っていたけれど、本当に手下がいるとは思えない。協力者の居場所だろうか。それにしては多すぎる。
とにかく、廃工場の場所とだいたいの地形ぐらいは把握しておかないと。
「ええと、ここが『彩色飴街』で、このへんが花柳街」
ジインに教えてもらった地名を呟きながら、視線で追っていく。
「『裏』、『貧困街』、ゴミ市場……廃工場」
廃工場。ふたりが暮らしていたところ。
首から下げた鍵を握りしめる。