孤島
ゆっくりとそのスパゲティを食べた。合間合間にワインを頂いた。スパゲッティを食べ終わってもまだワインは余ったので、それを少しずつ飲んでいた。やがてノックがしてボーイが入って来た。
「少し酔っ払ったみたい。わたし。」
にっこりと笑う。
「左様で御座いますか。」
ボーイは無関心に片付けをする。その服にこの手に持っているグラスの中のワインを思いっきりかけてやりたかった。でも、そんな事をしてもきっとボーイは私がミルクを零した時の様に染みにならないよう手を施すだけだろう。
「残りのワインはいかがいたしましょうか。」
「置いといて。」
「承知しました。それでは失礼します。」
ボーイを見送る。顔だけじゃなくて背格好も似てるな、と思いながら。
彼が出て行ってしまうと、私はばふぅ、とベッドに横になった。それからまた起き上がって、グラスを置いて、シャワーを浴びた。
しかし、体を洗っていて、その箇所が右の太股に差し掛かった時、私の手は動かなくなってしまった。
でも、洗わないでいる訳にもいかなかった。私はしばらくその体勢のままで気力が湧き上がるのを待って、それからひと思いに太股にタオルを走らせた。私の白い肌にそれとはまた違う白さの泡が塗られていく。一粒、私の瞳から涙が零れる。
それも最初の一回だけだった。後はもう泣く事もなく、足を洗い終わった。足の先を洗う頃には今まで有難うと心で思ったりもした。
大丈夫、痛みは無い。
シャワーから上がるとベッドに半分体を入れて、上半は起こした状態でワインを飲んだ。そして、彼女は足を切断する前と後、どちらで夜のお相手をあのボーイに頼んだのだろうか、と考えた。
もしかしたら、両方かもしれない。今、こうやって私が怖くて縮こまってる間も、夜のお相手をしてもらっているのかもしれない。
大丈夫、痛みは無い。
その言葉が私を安心させてくれる。私はもう一度心の中でそう呟いて、それから口に出して言ってみた。
酔いが回ってきたようだった。私はグラスをテーブルに置くとベッドに潜り込んだ。
目をつぶり、最初に心に浮かんだ事は、あの子の足が切られればいいのに、という事だった。
まだもう片方残ってるじゃないか、あの子には。
そう思ってから、あはは、酔ってるんだわ、私、と思い、それからまた大丈夫、痛みは無い、と心の中で呟いた。
それから、寝よう、と思い何かを思うことを辞めた時、私の心臓の音が聞こえてきた。それはだんだんと大きくなっていくようだった。それがもう破裂するんじゃないか、というぐらい大きくなって、私はぎゅっと閉じていた目を開けた。すると、少し心臓の鼓動は小さくなったようだった。
ベッドの中で右足の先を動かす。まだ感触はあった。足そのものが動くという感触、足先がベッドに触れているという感触。
それから、静かに目を閉じると私は眠りに付いた。
それはここに来てから三度目の眠りだった。
目が覚めた時、全身が硬くなっているのがわかった。緊張の為だった。全身がとても強張っていた。
見えたのは、寝る前に見えていた天井だった。日の出なのか、薄明るい部屋に寝る前の天井がうっすらと見える。
徐々にそれがはっきりと見えてきて、その周りも見えるようになってきた。テーブルの上にグラスが置かれていて、タンスの上の時計は時を刻み続けていて、そこは私の部屋だった。
途端、急激に私の体から力が抜けて行った。さっきまでのこわばりがまるで薬が切れたかのようになくなり全身がぐったりとする。汗が吹き出す。知らずに荒い息をする。大きく息を吸い、それを吐き出す。心臓が昨夜とはまた違った高鳴りをしている。早く脈打っている。
たすかった
それが最初に浮かんだ言葉だった。
どうやら私は助かった。私、と言うか、私の右足は助かった。切断されずに済んだ。
右足の先を動かしてみる。確かに感触がある。右の足先の感触、それがベッドに触れる感触。そういったものを生々しく感じる事が出来る。
もう一度、深く息を吸い、それから長い時間をかけてゆっくりと吐き出した。
安堵に体も心も神経も軽くなる。すごく、すごく軽くなる。やった、良かった、私は助かった。私じゃなかった。昨夜のあの恐怖と覚悟はなんだったんだろう。
目を閉じる。思わず、笑みが漏れる。
私は助かった。私じゃなかった。
目を閉じているので闇に包まれていた。
私はその闇の中で安心仕切っていた。
その時、突然私の頭にある考えが浮かんだ。
私はその考えに胸が凍りついた。ぱっちり、と目を開き、飛び起き、ベッドを出て、部屋を出る。不安が息をつまらせる。恐怖が足を竦ませる。通路に出て右を見て左を見る。朝早いこの時間では物音一つせず、窓から入る明かりもうっすらとしか廊下を照らしていない。私は走った。階段まで来る。どうしよう、どっち、下?上?いつも一階で別れていた。私は下へ降りた。
また廊下に出て右を見、左を見る。人の姿も何かの物音もしない。不安がさらに私の胸を締め付ける。恐怖が私の足を走らせる。私は廊下を駆けた。そして、また階段にたどり着き、そこを三階まで一気に上がった。
さすがに息が切れる。でも、とまれない。私のあげた不器用な花飾りを付け無邪気に笑う彼女。その笑顔がまた私の胸を締め付ける。
息も絶え絶えに重くなった足を動かした時、廊下の扉の一つが開いた。
はっとして、立ち止まる。そして荒い呼吸をしながら歩き出し様子を見守る。
中から出て来たのは左右をコンシェルジュとボーイとに支えられた彼女だった。コンシェルジュが私に気付き、私の方へ彼女を向けた。
ひどい有様だった。
シャツは所々濡れていて、恐らく大量の汗をかいた事を、それほどまでに暴れたことを物語っていた。目は泣きはらした後の様にやつれていて、すっかり目の輝きは失われいた。心なしか頬も黒くなり痩けたように見える。そして、左腕は二の腕の所で切断されていた。
私は歩み寄る。その私の足が目に入って、彼女が顔を上げた。そして、その疲れ切った顔に残っている僅かな体力を振り絞り、私を睨み付けた。私はまだ呼吸が整わず、なんの反応も出来なかった。でも、すぐに彼女のその顔が緩み、泣きそうなか弱い顔になり、私に抱き付いてきた。
抱き付いて、その残った片方の腕で力強く私を抱きしめ、私の胸にそのやつれきった顔を埋め、しくしくと泣き出した。遠慮しない泣き方だった。私は彼女をやさしく抱き返した。
「ごめん、私、」
耳元で申し訳なさそうに口にする私の言葉を、彼女は頭をぐいぐいと振って遮って言った、
「いいの、いいの、」
完全に涙声だった。その先は嗚咽になり、泣くばかりになってしまった。私は彼女を抱いている腕をさらに伸ばし、彼女を包み込んだ。静かな朝方の薄暗い廊下に彼女の嗚咽が切なく響き渡った。
「やれやれでしたよ。」
遠慮がちにコンシェルジュが言った。いつもの人を虜にする魅力溢れる言い方で。
「腕でこの調子でしたら、胴体の時は一体どうなる事やら、ですよ。」
少し、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。それが私にできる唯一の、そして精一杯の事だった。