孤島
そこでコンシェルジュとは別れて部屋に戻ると荷物を開けてタンスやクローゼットに服をしまったりしてから散歩に出た。館内にも興味はあったけれど、外を見たかったので出ることにした。
裏側に表と変らないぐらいの出入り口があり、それが島の中程に続いている小さな森に続いていた。それから、出口を出てすぐに建物を回るように細い道があった。森の散策は明日にでもするとして、私はその小径を歩き始めた。
その小径は建物の横で少し建物から離れて進んで、柵に囲まれた小さなテーブルが幾つかある庭のような所に出た。
悪くない雰囲気だった。芝のようなもので曲線の綺麗な模様が描かれていて、柵に軽く蔦が絡みついていた。
私はその中を軽く一周すると、また建物に戻った。その時、少し小径からそれて建物の白い壁によりかかって煙草を吸っている人が居た。
髪が短く丸い顔をしていて可愛い女の子だった。自分と一緒に松葉杖を壁に立てかけていて、その右足は太股の途中から先が無かった。その切れ目に包帯が巻かれている。
「こんにちわ。」
少女は煙草を口から離すと微笑みながら私に挨拶をした。笑うと目が細くなり、その顔が幼い可愛らしさに彩られる。それは男が好きそうな顔だった。
「こんにちわ。」
私も笑顔を見せて挨拶を返す。彼女はシャツにキュロットでこの暑さに相応しい恰好だった。
「ここは始めてよね。はじめまして。」
彼女の前まで近寄る。彼女は親しげに話を続けて来た。
「はじめまして。ここは長いの?」
「結構前からかな。そうだ、明日のお昼は場所、決めてる?」
煙草特有の苦く甘い香りが鼻を付く。私は煙草があまり好きじゃなかった。
「いいえ。だって、さっきここに来たばかりで、何処に何があるかなんて全然知らないのよ。」
「それじゃぁ、私と一緒しない?森の方にね、大きな木があって、その木陰にテーブルがあるのよ。そこで一緒に食べましょう。」
「うん、ありがとう。」
取り敢えず言われる通りにしておこうと思った。何故、彼女が私に親切にしてくれるのかはわからなかったけれど。
そういう性格なのかもしれなかったし、ここでは初めての人に親切にする風習があるのかもしれなかったし、今すぐに話し相手が欲しい程彼女は寂しいのかもしれなかったし、誰かを味方に付けなければならない微妙な立ち位置にいるのかもしれなかったけれど。
彼女は自分の腕時計を見た。そして煙草を地面で潰しながら言った。
「私、そろそろ中に入らなくちゃ。」
そして松葉杖を使って器用に歩き始めた。
「大丈夫?手伝いましょうか。」
「うん、ありがと、大丈夫。」
私たちは一緒に建物の入り口まで歩いた。
「いい所ね。」
「でしょ。食べる物もおいしいよ。」
「食べるもの?」
「そっか、さっき来たばっかりって言ってたよね。」
そこで玄関に付いた。私たちは特に会話を急がなかった。私は元より急いで会話をする人間が好きじゃなかったし、彼女は松葉杖を使う事に少し気を遣わなければいけないようだった。
「じゃぁ、ここで。」
そう言うと、彼女はエレベーターでも表玄関でも無い方へ行ってしまった。その不器用な歩き方を見ながらそれでも屈託の無い彼女にガラス細工のような魅力を感じた。
私は自分の腕を見た。しかし、そこに時計は無かった。コンシェルジュ、さっきの少女、二人共腕時計をしていた。ここに来てから出会った三人の内二人が腕時計で時間を計っていた。先生はどうだったろう。あの時、腕時計にまでは気が回らなかった。いや、あの時はまさかここまで腕時計が気になるとは思っていなかった。
しかし、あの身分であれば高価な時計の一つや二つは持ってるに違いない。
私は部屋に戻った。
扉を締めて鍵をかけると、椅子に座った。と同時に疲れが私の体を襲った。椅子に座ったまま窓の外を見る。そこはバルコニーになっていて、その向こうに小さな森が広がっている。海は見えなかった。私が来た方は反対側らしかったし、森の向こうを見るには二階は少し低かった。
そういえば、コンシェルジュが屋上にレストランがあると言っていた。そこなら海が見えるかもしれない。今はもう疲れていてそこまで行く気にはなれなかったけれど、いつか、例えば明後日の昼食にでも訪ねてみるといいかもしれない。
そのまま私は座っていた。疲れは少しずつとれて行ったけれど、さらに何かをするような気力は沸いてこなかった。卓上の時計を見る。五時を少し過ぎた所だった。
私はそのまま窓の向こうでその小さな健康そうな森が暮れていくのを見ていた。日を浴びていなくてもその木々は生命力を滲ませていた。
やがて日が落ち、時計が七時になった時、扉をノックする音が聞こえた。
その頃にはいつも通りの気力を取り戻していた私は扉を開けた。すると、丸い覆いを被せてある台車と共にボーイが控えていた。
「失礼します、夕食のお時間で御座います。」
「ありがとう。」
ボーイが台車を中に押入れ、覆いを取った。途端においしそうな香りが舞い上がり、部屋と私の心とに満ちた。
「本日の夕食はスズキのムニエルで御座います。」
その他、サラダとスープとライスが付いていた。ボーイがそれらをテーブルに並べてくれる。
「おいしそう。」
「九時に、お下げに伺います。お気に召されましたら幸いです。それでは失礼致します。」
ボーイが帰ると私は早速食べ始めた。
おいしかった。
自分で作りなれた料理の味と、値段の高い店で食べる味との、ちょうど中間に位置するおいしさだった。だから大分私は満足した。
食べ終わって一息ついていると、またノックが鳴った。九時だった。
「どうぞ。」
ボーイが入ってきて台車に皿を乗せ始める。
「いかがでしたか。」
「とてもおいしかったわ。どなたがお作りになられてるの?」
「シェフが厨房におります。ここでのお食事はほぼ全てそのシェフの手によるもので御座います。」
「今度、お礼を言いたいわ。」
「さぞ、喜ばれる事でしょう。」
ここで皿を乗せ終わり、ボーイはそれでは失礼します、と言って出て行った。
それから私はカーテンを閉めるとお風呂に入って、しばらくテーブルで紅茶を飲んでから、ベッドに入った。
ベッドはふかふかで寝心地が良かった。
そのふかふかのベッドに少し沈みながら、私は少し今のこの状況について考えてみた。
コンシェルジュ、態度と笑顔が素敵と言われる宿命のあの男、彼はどこまで信用していいか分からなかった。でも、ここでコンシェルジュをしている、と名乗っている以上、少なくとも私や他の客よりはここの事について精通しているはずだった。
先生、それからボーイ、この二人はどうも脇役らしかった。存在感が無い訳では無かったけれど、私とは距離を置いて成立する存在感だった。
それから、片足の無い女の子。
彼女は可愛いと形容される部類の女の子だった。だから、とても信用出来ない。
森は綺麗だった。庭も綺麗で、明日女の子が案内してくれる大きな木の根元もきっと素敵だろう。海は来る時に見ただけで、それからは見ていなかった。
腕時計を私は持っていない。