孤島
海が広がっている。
夏の日差しに照らされて輝いている海がどこまでも広がっている。
比較的おだやかな波に時折ボートが揺れるけれど、そこを男が懸命に漕ぎ進めてくれている。私は少し身を乗り出すようにして左手を水面からそっと奥へ差し入れた。照り付けられ熱そうに見える水面の奥からひんやりとした冷たい心地よい感触が伝わってくる。
私は手を上げると水を切ってからハンカチで拭いた。日傘が日を遮ってくれてはいたけれど暑さは私の体にじっとりと汗をかかせている。
座って遠くを、海の果てを眺めているだけの私でそうだったのだから、目の前のトランクの向こう側でオールを漕ぎ続けてくれている男はシャツも鍔の長いハンチング帽も汗でびっしょりになっていて呼吸も深く時折荒くなっていた。それでも男はほぼ同じ動きで力強くボートを推し進めている。
私はまた遠くを見ながら大きく息を吸い込んだ。潮の香りと照り付ける太陽の匂いが私の胸にいっぱいになり、その汗だくの男から感じる不快感を少し和らげてくれた。
そうやってしばらくボートは海を進んだ。
徐々に行く手に見えていた小さな孤島が段々と大きくなり、やがてその孤島から突き出している桟橋にボートが横付けする。
私はワンピースの裾をつまんで少し上げると、揺れる船に注意しながらすぐに桟橋に上がった。
男は既に降りていて船を桟橋と太いロープで固定し終わっていて、私が桟橋に上がってしまっているのを見て急いで船からトランクを引き上げて桟橋に置いてくれた。ありがとう、とお礼を言ってそれを持ち上げるとハンチング帽の鐔に片手を当てて軽く頭を下げる。それから男は船に戻った。
桟橋を歩き浜に出る。浜と言っても島の縁に出来た短い砂浜ですぐに草の生えた緩やかな丘になっている。私はここから、つまりその丘の麓から頂きの方を見渡した。
桟橋の終わりから階段が少し曲がりながら続いていてその先すぐに白い建物が立っていた。階段後その玄関へと繋がっている。私はその玄関を目指してトランクを持ち上げ上り始めた。
ずっとボートで座っていたせいでその徒歩は軽い運動になった。元よりそんなに荷物を入れていないトランクは見た目よりずっと軽くて引き摺る必要も無かった。
それでもその建物に付く辺りになるとさすがに足と腕が少し疲れてきて階段を上り始めた頃の爽快感はすっかり無くなってしまっていた。
ガラスの扉を開けて中に入る。中は冷房か効いていて心地よかった。扉がしまると同時に奥から真っ白い綺麗なシャツに紺のベストを着た男が大きめの声を上げながら近寄ってきた。
「やぁやぁやぁ、お待ちしておりました、ようこそ。」
両手を広げ体で歓迎を表現している。それから目の前まで来ると片手を腹の辺りに曲げながら頭を下げて、
「私、ここのコンシェルジュで御座います。お嬢様のお世話一切を仰せつかっております。何かあればなんなりとお申し付けくださいませ。」
一切、と、なんなり、の二つの単語を強調して言った。それから顔を上げて笑顔を見せる。若くは無いけれど年をとってもいない風貌で、その笑顔は人を少し楽しい感じにさせる魅力があった。私は好みではないけれど、こういう男を好きそうな女は多そうだった。
「よろしく。」
お嬢様、と私は呼ばれた。別にうれしくは無かった。
「では、さっそくお部屋をご案内させて頂きます。」
いつの間にかボーイが側にいて、失礼します、と小さく声をかけてから置いていた私のトランクを持ち上げて付いてきてくれた。
「こちらです。」
部屋はエレベーターで一階上がった206号室だった。中を見ると白い壁と白いカーテン、タンスやクローゼット等の必要な物は一通り揃っているようだったけれど、真っ白に近いカラーリングが病室を思わせた。
「観光や療養が目的ではない為、印象としては多少殺風景とお感じになるかもしれませんが、必要な物は全て取り揃えております。」
部屋を紹介するようにその長い腕を広げながらコンシェルジュが自信たっぷりに言ってくれる。もっとも、この人の話し方は今の所いつも自信たっぷりだったけれど。
それから冷蔵庫やバス等の設備と、簡単なここのルールを説明してくれた。
「お食事は朝、夜はここにいるボーイが」
と、隣に立って説明の補助を、主に実演をしていたボーイに腕を向け、そのボーイが軽く頭を下げる
「お部屋にお運び致します。もちろん、お申し付け頂けましたら他の場所、例えば屋上のレストランであったり、一階のテーブルであったり、そういう他の場所でのお食事も出来うる限り手配させて頂きます。お昼で御座いますが、お昼は部屋の掃除等をさせて頂きますので、原則、お部屋外でのお食事をお願いしております。」
「でも、他の場所なんてわからないわ。」
「一階のテーブルなど、どうでしょう。会食用ですのでそれなりの飾り付けも致しております。なんにしましても、今、」
コンシェルジュが腕時計を見る。
「お昼過ぎで御座います。これから夕食、明日の朝食、と二回の食事も御座います。それまでにこの島の散策も兼ねてお探しになられてはいかがでしょう。」
私は、そうするわ、と答えた。
「では、先生の所へご挨拶に伺いましょうか。早い方がいいでしょう。」
ボーイは部屋を出ると私たちとは別方向へ行ってしまった。私たちはエレベーターで最上階、つまり五階へと昇り、それから階段でさらに上のテラスへ向かった。
コンシェルジュがコンコン、と扉を叩き、そして開けた。
「失礼します。お嬢様がご挨拶をしたいとの事です。」
中はよくある事務所のようだった。横の戸棚に盾や額に入れられた表彰状が置いてあり、真ん中よりちょっと奥にテーブルがあり、その向こうの高そうな椅子に白衣の初老の男が座っていた。
私は入るとちょこんと頭を下げた。
「おぉおぉおぉ、これはようこそ。」
先生は読んでいた雑誌をテーブルに置くと立ち上がりこちら側に回って着て欧米人のように手を差し出して来たので私はそれを握った。先生は痛くは無いけれど力強い握り方だった。
「まぁ、殺風景な所ですが、ゆっくりしていってください。全て、こちらに任せて頂ければ大丈夫ですよ。」
全て、の所で笑顔を見せて、私の肩をその痛くは無いけれど力強く二、三回ぽんぽんと叩いた。その笑顔はコンシェルジュが見せる笑顔と同じ動機だったのだろうけれどひどく嫌らしい印象を受けて肩に触られるのも嫌だった。
船を漕いでいた男は仕草や雰囲気に嫌らしさは無かった。でも、この男はそういう嫌らしさがあった。だいたい、白衣を着た先生はこういう嫌らしさがある。
「えぇ、そうさせて頂きます。」
私はその嫌悪感を表に出さず、にっこりと微笑んで答えた。
それからコンシェルジュと部屋を出ると、少しまわりを散歩する事をおすすめされた。
「広くはありませんが、館内にもゲストルーム以外にも様々な部屋が御座いますし、外も散歩するには打ってつけで御座います。明日からの昼食の場所を選んでいれば、時間などすぐに経ちましょう。」
夏の日差しに照らされて輝いている海がどこまでも広がっている。
比較的おだやかな波に時折ボートが揺れるけれど、そこを男が懸命に漕ぎ進めてくれている。私は少し身を乗り出すようにして左手を水面からそっと奥へ差し入れた。照り付けられ熱そうに見える水面の奥からひんやりとした冷たい心地よい感触が伝わってくる。
私は手を上げると水を切ってからハンカチで拭いた。日傘が日を遮ってくれてはいたけれど暑さは私の体にじっとりと汗をかかせている。
座って遠くを、海の果てを眺めているだけの私でそうだったのだから、目の前のトランクの向こう側でオールを漕ぎ続けてくれている男はシャツも鍔の長いハンチング帽も汗でびっしょりになっていて呼吸も深く時折荒くなっていた。それでも男はほぼ同じ動きで力強くボートを推し進めている。
私はまた遠くを見ながら大きく息を吸い込んだ。潮の香りと照り付ける太陽の匂いが私の胸にいっぱいになり、その汗だくの男から感じる不快感を少し和らげてくれた。
そうやってしばらくボートは海を進んだ。
徐々に行く手に見えていた小さな孤島が段々と大きくなり、やがてその孤島から突き出している桟橋にボートが横付けする。
私はワンピースの裾をつまんで少し上げると、揺れる船に注意しながらすぐに桟橋に上がった。
男は既に降りていて船を桟橋と太いロープで固定し終わっていて、私が桟橋に上がってしまっているのを見て急いで船からトランクを引き上げて桟橋に置いてくれた。ありがとう、とお礼を言ってそれを持ち上げるとハンチング帽の鐔に片手を当てて軽く頭を下げる。それから男は船に戻った。
桟橋を歩き浜に出る。浜と言っても島の縁に出来た短い砂浜ですぐに草の生えた緩やかな丘になっている。私はここから、つまりその丘の麓から頂きの方を見渡した。
桟橋の終わりから階段が少し曲がりながら続いていてその先すぐに白い建物が立っていた。階段後その玄関へと繋がっている。私はその玄関を目指してトランクを持ち上げ上り始めた。
ずっとボートで座っていたせいでその徒歩は軽い運動になった。元よりそんなに荷物を入れていないトランクは見た目よりずっと軽くて引き摺る必要も無かった。
それでもその建物に付く辺りになるとさすがに足と腕が少し疲れてきて階段を上り始めた頃の爽快感はすっかり無くなってしまっていた。
ガラスの扉を開けて中に入る。中は冷房か効いていて心地よかった。扉がしまると同時に奥から真っ白い綺麗なシャツに紺のベストを着た男が大きめの声を上げながら近寄ってきた。
「やぁやぁやぁ、お待ちしておりました、ようこそ。」
両手を広げ体で歓迎を表現している。それから目の前まで来ると片手を腹の辺りに曲げながら頭を下げて、
「私、ここのコンシェルジュで御座います。お嬢様のお世話一切を仰せつかっております。何かあればなんなりとお申し付けくださいませ。」
一切、と、なんなり、の二つの単語を強調して言った。それから顔を上げて笑顔を見せる。若くは無いけれど年をとってもいない風貌で、その笑顔は人を少し楽しい感じにさせる魅力があった。私は好みではないけれど、こういう男を好きそうな女は多そうだった。
「よろしく。」
お嬢様、と私は呼ばれた。別にうれしくは無かった。
「では、さっそくお部屋をご案内させて頂きます。」
いつの間にかボーイが側にいて、失礼します、と小さく声をかけてから置いていた私のトランクを持ち上げて付いてきてくれた。
「こちらです。」
部屋はエレベーターで一階上がった206号室だった。中を見ると白い壁と白いカーテン、タンスやクローゼット等の必要な物は一通り揃っているようだったけれど、真っ白に近いカラーリングが病室を思わせた。
「観光や療養が目的ではない為、印象としては多少殺風景とお感じになるかもしれませんが、必要な物は全て取り揃えております。」
部屋を紹介するようにその長い腕を広げながらコンシェルジュが自信たっぷりに言ってくれる。もっとも、この人の話し方は今の所いつも自信たっぷりだったけれど。
それから冷蔵庫やバス等の設備と、簡単なここのルールを説明してくれた。
「お食事は朝、夜はここにいるボーイが」
と、隣に立って説明の補助を、主に実演をしていたボーイに腕を向け、そのボーイが軽く頭を下げる
「お部屋にお運び致します。もちろん、お申し付け頂けましたら他の場所、例えば屋上のレストランであったり、一階のテーブルであったり、そういう他の場所でのお食事も出来うる限り手配させて頂きます。お昼で御座いますが、お昼は部屋の掃除等をさせて頂きますので、原則、お部屋外でのお食事をお願いしております。」
「でも、他の場所なんてわからないわ。」
「一階のテーブルなど、どうでしょう。会食用ですのでそれなりの飾り付けも致しております。なんにしましても、今、」
コンシェルジュが腕時計を見る。
「お昼過ぎで御座います。これから夕食、明日の朝食、と二回の食事も御座います。それまでにこの島の散策も兼ねてお探しになられてはいかがでしょう。」
私は、そうするわ、と答えた。
「では、先生の所へご挨拶に伺いましょうか。早い方がいいでしょう。」
ボーイは部屋を出ると私たちとは別方向へ行ってしまった。私たちはエレベーターで最上階、つまり五階へと昇り、それから階段でさらに上のテラスへ向かった。
コンシェルジュがコンコン、と扉を叩き、そして開けた。
「失礼します。お嬢様がご挨拶をしたいとの事です。」
中はよくある事務所のようだった。横の戸棚に盾や額に入れられた表彰状が置いてあり、真ん中よりちょっと奥にテーブルがあり、その向こうの高そうな椅子に白衣の初老の男が座っていた。
私は入るとちょこんと頭を下げた。
「おぉおぉおぉ、これはようこそ。」
先生は読んでいた雑誌をテーブルに置くと立ち上がりこちら側に回って着て欧米人のように手を差し出して来たので私はそれを握った。先生は痛くは無いけれど力強い握り方だった。
「まぁ、殺風景な所ですが、ゆっくりしていってください。全て、こちらに任せて頂ければ大丈夫ですよ。」
全て、の所で笑顔を見せて、私の肩をその痛くは無いけれど力強く二、三回ぽんぽんと叩いた。その笑顔はコンシェルジュが見せる笑顔と同じ動機だったのだろうけれどひどく嫌らしい印象を受けて肩に触られるのも嫌だった。
船を漕いでいた男は仕草や雰囲気に嫌らしさは無かった。でも、この男はそういう嫌らしさがあった。だいたい、白衣を着た先生はこういう嫌らしさがある。
「えぇ、そうさせて頂きます。」
私はその嫌悪感を表に出さず、にっこりと微笑んで答えた。
それからコンシェルジュと部屋を出ると、少しまわりを散歩する事をおすすめされた。
「広くはありませんが、館内にもゲストルーム以外にも様々な部屋が御座いますし、外も散歩するには打ってつけで御座います。明日からの昼食の場所を選んでいれば、時間などすぐに経ちましょう。」