生物は温かい。
青山浬というオンナは奇妙な人間だった。
彼女の肩書きはいわゆる僕の上司で、それ以上でも以下でもない。
それはパンやのおばさんとか郵便局のお兄さんのような他愛のない肩書きだった。
彼女はいつも静かだった。
静かで、それでいていつも確かな怒りを放っていた。
誰に対してかもあるいは何に対してかもわからないけど、それは確実に怒りだった。
薄くて強い刃物の様な。
僕はそういったオンナを見たのは初めてだった。
例えば僕の恋人は今時単なる黒いゴムでポニーテールなんかしないし、友人に対して「君」なんて言わない。(一度偶然町で友人とおぼしき相手にそう言う青山浬を見てしまった。彼女はプライベートでも髪をひっつめていた。)
それに人を鼻で笑ったりしないし、興味のない話を「つまらないわ。」とか言って途中で退席したりもしない。
…要するに僕は青山浬が苦手だった。
あの能面の様な顔を見ていると逃げ出したくなるのだ。
だからだろうか、僕はその瞬間叫びたくなった。
事実叫び声に近い声で彼女の名を呼んだ。
早く逃げるんだと彼女を説得する様な叫び。
僕はひたすら悲しかった。
彼女は、青山浬は「能面」でなければならないのだ。
こんな姿をしていてはいけないのだ。
誰か知らないつまらないオトコのために、こんなにもオンナであってはいけないのだ。
それはつまり、なんていうか絶対の法則みたいなものだった。
僕の中で。
だから僕はあんな馬鹿なことをしてしまったのだ。
よりにもよって恋人の目の前で、しかもつい先程まで愛を囁きあっていた恋人の目の前で知らないオンナを抱き上げてしまったりしたのだ。
それはきっと恋人からいったら裏切りなのだと思う。
でも僕は全然罪悪感がなかった。
まるで朝起きたら空にお日様がいたときみたいに何でもない気持ちだった。
ああ軽い
なんて軽い
不気味なほど青山浬はオンナだった。
ぽろぽろと今しもはがれ落ちそうなもろさだった。
ひっつめていない髪は優雅なウェーブをえがき、白の柔らかなセーターからは温かい体温を感じた。
僕は逃げなくてはと思った。
いや、正確には彼女を逃がさぬくてはと。
どこかもっと遠くへ、汚いものなんかない世界へ。
だってこんなのは青山浬ではない。
僕が知っている、僕が望んでいる、僕が感じている単なる上司という肩書きのオンナではない。
こんなこんな、温かな生き物ではないのだ。
…でも、ちゃんと彼女からは怒りが溢れている。
ただそれだけ、…やっとそれだけで青山浬というオンナは繋ぎ止められていた。
その時ふっと僕にある温かな考えが浮かんだ。
あぁ、そうかと僕は気付いた。
僕はずっと、このオンナの温もりが欲しかったのだ。
ただひたすら。
この肌に、触れたくて。