生物は温かい。
生物は温かい
悲しかったといえば嘘になる。
嬉しかったといえば嘘になる。
よくわからないんだじゃあ、と言われてもやっぱりそれは嘘なんだ。
だって私はちゃんとそれをわかってる。
「青山さん」
どこからか幻の様な声がした。
だって私が青山さんなんだと気付くヒトはこの世に存在しないんだもの。
だから私はその幻聴を無視して肉を噛みつづける。
薄くて白い綺麗なプレートの上に汁が滴り落ちる。
ガツガツと汚らしくひたすら。
欲望というものを剥き出しにして。
「青山さん」
また幻聴が言った。
薄暗くて柔らかな光のレストラン。
私は私が着そうもない服で来そうもないレストランに食べそうもない料理を食べに来ている。
きっと仕事場の誰も見たこともない髪型で知りそうもない表情をしているのだろう。
こういう時、誰も私を私と気付いたヒトはいなかった。
私はいわゆる他人のそら似というやつで青山浬という女ではなかった。
そこには私が27年間積み上げてきた人生はこれっぽっちも残っていないのだ。
だから幻聴は幻聴だった。
私は顔も上げずに二人ぶんの肉を平らげた。
多分半分泣いていたのだ。
そして半分は心の底から笑っていた。
だから、だろうか。
…見付かってしまった。
「…青山さん」
目の前の男は泣きそうな顔で私を救いあげた。
死にそうな私の腕を必死で掴んでずぶずぶと今にも私を引きずりこもうとしていた泥沼をけちらして。
「…青山さん、青山さん。」
レストラン中が私たちを見ていた。
菊池君は私でない私を抱き上げてそのままダンスをするみたいに滑らかに二人ぶんの会計と菊池君の会計を支払い私を連れだした。
私はポキポキと崩れ墜ちそうな体をしていたからなされるがままだった。
パニックになってもいいのにどこか冷静だった。
菊池君は布きれみたいな私を近くの公園までかついでいった。
こんな、いかにも今時の優男の彼に意外にも力があって少しびっくりした。
公園には誰もいなかった。
例えばウォーキング中の老人とか浮浪者の男性とかも。
もちろんこんな時間に子供や夫婦もいない。
ただっぴろい噴水のある夜の公園は、もはや公園ではなかった。
ちょうど今私が私でない様に。
菊池君は私をベンチにぽいと下ろした。
軽く、でもいたわるみたいに。
私は黙って彼を見上げた。
何者でもないそのままのオトコがそこにはいた。
オトコは私でない私をもう一度抱き締めた。
私は折れたりしなかった。
こんなもろいのに。
むしろ逆に力強くなったことに気付いた。
オトコはひたすら私を抱き締めた。
怖くない、怖くないと囁いているようだった。
…もう大丈夫だよ、と。
私は勝手に自分の口が開いてまたびっくりした。
勝手に目から液体が出ていたことにも。
「…でも悲しかったの。」
私は子供みたいに言った。
事実子供だった。
そうだ、結局私は信じてたのだ。
あの、世界一屑みたいな最低で馬鹿みたいなオトコを。
それでいて世界一のオトコを。
「悲しかったの。」
もう一度私は言う。
菊池君はひたすらただひたすら私が消えてしまわないように捕まえていてくれた。
生物は温かい。