生物は温かい。
(あ、痛い。)
そうだった。
忘れていた。
人は殴られると痛みを感じる生き物だった。
僕は殴られた左頬をさする。
目の前に立っている井上君は、見たことのない、ひどく冷たい瞳をしていた。
大学時代に同じゼミの後輩だった時はもう少し子供っぽい、弟の様なイメージがあったけれど。
今の彼はもう一人の男だった。
僕は少し感動する。
殴られているというのに。
「…なんだよ。その目。」
井上君は必死で自分を抑え込むような声を出した。
僕は何か言わなくては、と思う。
例えば、君に殴られる筋合いはない、とか、それとも君は紗英子と寝たのかい?とか。
けれど何を思ったか僕は変なことをくちばしっていた。
「…メリーゴーランド」
「ハ?」
「いや、ごめん。…何でもないんだ。」
僕はかるく頭を振る。
僕は気が付いた。
殴られることで罪悪感が償われていく気がするのだ。
だから僕に彼を怒る権利なんてない。
むしろ与えられているのだから。
抵抗するでもうろたえるでもなく黙りこむ僕を、井上君は何か期待するようにしてじっと待っていた。
でも、僕は何も言わなかった。
彼も僕の様に救われたがっているのではないかと思ったからだ。
恋人を寝とられてそんな親切に糾弾してやれるほど僕はお人好しではない。
そもそも彼が紗英子と寝た根拠などなにもないのだから。
「…んなんだよ。」
突然、はっとするほど熱のこもった言葉が彼から洩れた。
僕は思わず顔をあげる。
「え?」
「オレはッ…そんな先輩見たくなかった!紗英子先輩傷付ける先輩なんか…見たくなかったんだよっ!!」
「…」
いつのまにか彼は泣いていた。
くっそ、かっこわりぃオレ、などと呟きながら。
僕は呆然と見ているしかなかった。
気付いてしまったのだ。
…例えば彼が紗英子と寝ていたとして、それが何になる?
だって彼は彼女を愛しているのだ。
そうだ。彼は矛盾とか棚あげとか何にも気にしていない。
ただ怒っている。
滅茶苦茶に僕に腹をたてている。
…じゃあ、僕はどうだ。
僕は青山さんに何をした?
単なるかりそめの宿を提供しただけだ。
僕は逃げたのだ。
彼女の闇から逃げたのだ。
自分が最後までやりとげられる自信がないから。
今にも消えそうな彼女を。
見捨てたのと同じだ。
僕は弱虫だ。
…井上君はもう泣きやんでいた。
そして呆然とした表情で僕を見上げた。
「なんで先輩まで泣いてんすか。」
僕はそこでやっと自分の頬が温かいわけに気付いた。
メリーゴーランドが再び動き出すのを感じる。
開園だ。