生物は温かい。
介在
「ただいま」
僕は呟く様にして言い、家に入った。
どうせ誰も応えはしないのだから無言で入ればいいのかもしれない。
しかし僕は鍵っこだった頃の「家に入るときは家に人がいるようにしてはいりなさい。いつ何時泥棒だの変質者だのが入ってくるかわからないから。」という母の教えを未だ忠実に守っているのだ。
これはもう生活の一部と言ってもいい。
…なのに鍵をかけずに近所の本屋さんへ行くことも出来る僕。
僕にはいつも子供の頃と大人の僕が介在している。
明かりは相変わらずついていた。
自分でつけっぱなしにしたくせに妙な期待をしてしまう。
そしてその期待の可能性の薄さも充分承知しているのだ。
僕は靴を脱ぎ、溜め息をついた。
…そして慌ててその溜め息を飲み込んだ。
玄関には僕が履くはずのないヒール付きの無機質なパンプスが転がっている。
僕は靴を放り投げる様にして脱ぎ、部屋のなかへ慌てて駆けこんだ。
「あっ…」
青山浬は眠っていた。
裸足で、ワイシャツとスカートのまま、床で倒れている。
それは無防備にも程がある姿で、より一層僕を動揺させた。
なんとなくどうすればいいかわからずにちらっと食卓の方を向くと、そこにはすっかり綺麗になった茶碗があった。
そういえば廊下には鞄も落ちていた。
何ともわかりやすい彼女の軌跡。
道しるべの様にぽつぽつとなんらかが残っている。
そしてゴールは寝そべる青山浬。
「…青山さん。」
僕は無償に嬉しくなって小さく彼女を呼ぶ。
やっと帰ってきた家出猫が呑気にご飯を食べ眠っているといった風体だ。
青山浬はうー…と何事が呟きごろりとひっくり反った。
そして這う様にして風呂場へと進んでいく。
「お風呂入りたいんですか?」
青山浬は応えずに這ったままで浴室へと消えていった。
酔っているようには見えなかったけれど。
初夏とはいえあんな薄着で床に寝ていたから風邪でもひいたんだろうか。
僕は元来の世話やき症を発揮させ、うろうろと悩んでいた。
とりあえず青山浬が使った皿を洗い、着替を用意し、彼女が放っていたパンプスやストッキングなどを片付けてお湯をわかした。
もし彼女が風邪をひいていたら何か温かなものを飲ませた方がよいと思ったのだ。
…そうこうしている間に青山浬は風呂から出てきた。
彼女は風呂から出るのが早い。
男の僕からしてもわりと早いうちに入るのだから、女性からしたらもっと早いのだろう。
少なくとも紗英子は彼女の倍くらい入っていた。
すっかり化粧を落としつるりとした顔になった青山浬は赤ん坊のような肌をしていた。
真っ白で、柔らかな湯気をまといほんのりとピンクの頬をしている。
アイラインがないせいか幾分も会社での厳格さが消えていた。
青山浬はぼくのぶかぶかとしたトレーナーを着て下のジャージをずるすると引きずりながら近寄ってきた。
誰がこれを彼女ってわかるかなぁ?と、僕はお決まりのことを考える。
「あ、青山さん。さっき少し様子がおかしかったんで心配してたんですけど…。」
青山浬はぼんやりとした表情で僕を見上げた。
あ、これは本当に風邪だ、と僕は確信する。
「あの、大丈夫ですか?はやく…」
そこで僕の言葉は途切れた。
青山浬がふわりと倒れこんできたからだ。
彼女の体は相変わらず子供の様に細かった。
細すぎるくらいだ。
それなのに胸のあたりは妙にふっくらとしていた。
そして彼女からは湯上がりの赤ん坊のにおいがした。
僕はその矛盾した感覚にひどくショックを受けた。
心臓が何かを訴えかけていた。
僕はゆっくりと、なんとか呼吸を整えて彼女をベットへと連れていった。
青山浬の少し熱い息が首にあたった。
僕はそっと彼女を布団に寝かせ、キスをした。
「…最悪だ。」
僕はひどく狼狽し、出来るだけ彼女から離れた所に自分の布団をしいた。