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生物は温かい。

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彼は居ない。
わかっている。
けれど私の足は既にドアの前に立っていた。
矛盾という小さなトゲは、結局私の足を止める程の効力などほとんど持ち合わせていなかったのだ。
逃げるのが上手い人間は強がりが多いというのは私の持論であるしこの場面にも当てはまる。
実のところ私は私と最も付き合いが長かった。


ごくありきたりでうすっぺらな鉄の板。
この板の向こうには酸素がある。
決して触れる事の出来ない、柔らかな酸素が。

私は小さく息を吸った。

爪を覆う透明の化学物質が廊下の蛍光灯の光を反射している。
社会人とはそういうものだ。
何故かなんて理由など無く、私にとっての社会人とは。

(…ああ。)

ドアノブは案外ひやりとしていた。
鈍い金属音が殺風景な廊下にわずかに響く。
鍵は開いているようだった。
でもすぐに、人の気配がまるでしないことに気付いた。
それなのに薄く開けたドアからは光が漏れている。
…だけれど、やっぱり人の体温の香りはしない。

私は不可解な気分とホッとした気分とほんの少しのがっかりした気分で隙間に滑り込んだ。
光は奥まで光々と続いている。

(なんてエネルギーの無駄使いなんだろう。)

図々しくも私は文句をつける。
それは別に環境を、ましてや電気代を心配したわけではない。


…やはり彼はいなかった。
それにしても不用心だ、鍵もかけずにでるなんて。
電気をつけっぱなしにしていれば大丈夫と思ってるの?

私はまた小さな悪態をつく。
そして無償に腹が立ってくる。
リビングに入って鞄を放り投げると、可哀想な鞄は清潔な床に横たわった。
綺麗好きな人間が住んでいることが一目でわかる床だった。

「かくも憐れ。」

台詞はその清潔な空気にパクリと食い込まれた。
私はその効力にとても驚き、そして空腹に気付く。
この家は私にいかにも生き物らしい感覚を植え付けることすらできるらしい。
一体どうなっているのだろう?これは。


大した期待もせずに何かを期待して、食卓の方に視線を寄せる。
ぐらりとした。
足は瞬時に使い物にならなくなった。

その蛸の様な足にはもうなすすべがあるわけもなく、私は椅子にドサッと倒れこんだ。
正確には倒れ込むように座った。
そして急激に、今度は体中の力が抜けてしまった。

机の上に居るぴっちりとラップの掛けられた食事。
かしこまったお嬢さんたちのようにカラのままうしろを向けて並んでいるご飯茶碗と汁椀。

私はほとんど呆然としながら、それらを見渡した。脇に置かれた小さなメモ用紙を掴む。
それから、少し息を整える。

…私はいつのまにかその短い言葉たちをくちずさんでいた。
それは、かつてどこかで耳にした、綺麗な讃美歌と同じ響きがした。
どこか遠くへ語りかける様な。


「僕は本屋へ行き、本を買います。もしいるのなら食べて下さい。いないのなら明日もまた同じ食事をとるはめになる。」

何度も何度も繰り返すと、それは意味のない言葉の羅列に変わっていく。
でも私は意味を見い出すことができる。
極端に言えば見い出さざるを得ないのだ。
この紙切れがここに存在するというだけで、それでもう十分なのだ。
彼が居るにしろ居ないにしろ、もっと言えば居るのよりもずっと。

期待に応える人間を私は生まれて初めて見た。彼は本物の神様なのかもしれない。

(つまり私には悪女になる資格など欠片も無かったのである。)

泣きながら豚肉を口に放り込んだ。讃美歌はいつまでも流れている。

あぁ、私はここにいるべき人間ではない。
…ちっとも出ていく気などないくせに私は悟る。


作品名:生物は温かい。 作家名:川口暁