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虚無

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 絵菜は、そんな二人を尻目に足早にダイニングを出て、いっきに階段を駆け上った。背後から父の怒声が聞こえたが、もはや絵菜の知ったことではなかった。

 気が付けば、日付が変わり朝を迎えていた。
 昨夜、親に理解されない悲しさからベッドでむせび泣き、疲れ果ててそのまま寝入ってしまったらしい。制服に皺がよっていた。
 ――あの後、母さんは平田さんの家に謝罪しに行ったのだろうか。
 思って、頭を振る。
 ――どうだっていい。
 あの人たちは結局自分たちの体裁の方が大切なんだ、と絵菜は思った。子供がイジメに加担しているよりも、イジメられている子を庇って被害者になった方が、いっそ聞こえもいい。どうにか理解してもらおうと齷齪(あくせく)した自分の愚かさ加減に自嘲せざるを得ない。
 結局、大人なんてみんな同じなのだ。自らは深く関与せず、飾りたてた大義名分を偉そうに吹聴(ふいちょう)するくせ、いざ事が起これば、自分たちの力でなんとかしろという。絵菜一人にできることなどたかが知れているのに、「イジメは良くない」と解決を子供任せにする。間に受けて実行すれば、多勢に無勢、絵菜はかっこうの獲物になるに決まっている。鈍色に光る頑丈な檻を用意してくれるならまだしも、即席で拵えた見栄えばかりいい張りぼてでは、身を守ることはできない。そんなことも分からない。自分の子供が被害にあって、ようやく、子供が自分の力だけでイジメに拮抗することの無謀さに気づくのだろう。それでは遅いというのに。
 絵菜は陰鬱な気分を叱咤して、のろのろとベッドから起き上がり、テーブルの上の鏡を覗き込む。散々泣き散らしたせいか、瞼が赤く腫れぼったい。
 絵菜は溜息を漏らした。こんな顔をして学校に行きたくない。しかし、親と顔をあわせたくもない。
 枕元に置いてある目覚ましがけたたましく鳴る。セットした時間よりも少し早めに起きてしまったらしい。耳障りな音を黙らせるために、ベッドサイドへ歩み寄り乱暴に時計を叩いた。チンと、最後に一鳴りしてようやく沈黙する。
 ――とりあえず、顔洗ってこよう。
 ドアノブに手をかけて、気だるそうに押し開ける。かたん、と物がぶつかる音がして、足元に視線を落とす。ドアに弾かれた新聞が、洗面所の方を向いて落ちていた。絵菜は訝しげに眉を顰めた。
 新聞を拾い上げると、目に付きやすいようある記事だけ赤いペンで囲ってあった。見出しには、「十五歳 男子中学生、いじめによる自殺」とある。
 おそらく両親が絵菜に読ませたくて置いたのだろう。朝から縁起でもない。
 絵菜は忌々しげに新聞を壁に投げつける。バラバラになって床に落ちてゆく新聞を眺めながら、得体の知れない不安にかられた。まるで少年の末路が平田の行く末を暗示しているふうに思われて、どうしようもない気分にさせた。
 ――平田さんは自殺するほど馬鹿じゃない――大丈夫、自分に言い聞かせるふうにして口の中で何度も繰り返し呟いた。
 気を取り直して、新聞を跨ぎ洗面所へ向かう。窓からの遮光が洗面所の中を明るく照らし、電気を点ける必要がなかった。
 絵菜は歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を穂先に付けて歯を磨く。蛇口を捻って勢い良く噴出する水を、コップの代わりに手で器を作り、そこに注いだ。数回口を漱いでからついでに顔を洗う。目を閉じた瞬間、脳裏に新聞の記事が過り、背筋がぞっとするのを身震いしてやり過ごす。脇にかけてあるタオルで手早く顔を拭った。
 洗面台の上の棚に置いてあるブラシで髪をとかす。ねこっけのせいで毛先でこんがらがるのを根気強くときほぐしていく。肩まである髪を結わこうかしばらく迷って、面倒くさくなりやめることにした。
 鏡に視線を戻し、自分の顔をまじまじと見つめる。赤く腫れた瞼が目立ってしょうがない。絵菜は、化粧でどうにかごまかそうと化粧ポーチに手を伸ばした。ポーチを手にしたところで、ファンデーションを切らしていたことを思い出し舌打ちをする。仕方なく、眉ペンで眉を整えるだけにした。
 二三歩下がって鏡に胸から上が綺麗に収まる位置まで後退する。登校する姿にしては少々不足しているがしかたがない。絵菜は、軽く息を吐いてから丹田にぐっと力を入れて顔を引き締めた。
 気分が萎えないうちに階段を下りて玄関へ向う。リビングから母が顔を覗かせたが、それに気づかぬ振りをして、踵の磨り減った革靴を履いた。母の呼ぶ声を無視して、何食わぬ顔で外へ出て行った。
 朝の柔らかい日差しが、近所の庭先に生えている木々の青を瑞々しく彩り、連翹(れんぎょうの)の黄が殺風景な町並みに鮮やかな色彩を添える。風は温かに、生命を慰撫するように優しく絵菜の頬を撫ぜた。近所のおばあちゃんがまいたのだろう、水打ちされたアスファルトが斑模様を描いていた。
 絵菜は、自宅の前に止めておいた自転車に鍵を差し込み、ペダルに足をかけ、思い切り地面を蹴った。その勢いに乗って、自転車に跨り、ペダルを漕いだ。自転車がぐんぐん加速してゆく。
 八時十分、住宅街にはまだ人通りが少ない。絵菜は舗装された急な坂をノーブレーキで下る。風を切る音が耳をかすめ、通り越した人影がどんどん小さくなるのを見届けた。
 絵菜の通う高校は自宅から自転車で二十分ほどの距離にある。偏差値は中の上、女子の制服は紺のブレザー、男子は学ランの公立高校だった。特に悪い噂もなく、自宅から近かったため、他の高校をけってこの高校にした。しかし、入学してまもなく、けっして問題がなかったわけではないことを知る。食わせ物の教師たちが、構内の問題を揉消し、臭いものに蓋をしているだけに過ぎなかったのだ。平田がいい例だろう。
 絵菜は加速するに任せハンドルを右に切った。この角を曲がり真っ直ぐ行ったところにある陸橋を越えれば、住宅街を抜け、学校に続く交差点へ出る。
 交差点といってもそれほど大きいものではない。もとは抜け道に使われていた車道に急遽歩行者用の信号を設けた程度のもので、通勤時刻になっても、車道の信号は赤だと言うのに車が猛スピードで駆け抜けていく、近所でも有名な交差点だった。死亡者こそ出ていないが、たまに歩行者(主に生徒)との接触事故が起こる。接触した車はそのまま走り去ってしまい、被害者は泣き寝入りをするしかなかった。
 絵菜は交差点が近づくにつれ速度を落とす。ここからなら交差点が見渡せ、生徒達が車の途切れるタイミングを見計らっているのが見える。その中に見知った人影を認めて、絵菜は胃が熱くなるのを感じた。平田だ。
 絵菜はちらりと横目で腕時計を見遣る。時間は八時二十分、まだホームルームまで余裕があった。思って、緩くブレーキを握る。平田との距離を測りながら慎重に自転車を進めた。
 信号が青に変わった。生徒達は車の往来を確認している。車道の信号は当然のことながら赤だったが、前方から車がスピードを落とさず走行してくる。車との距離は、走って横断すればぎりぎり渡れるくらいの距離だった。
 生徒達は接近してくる車の前を走り抜ける。平田はタイミングを逃したのか、僅かに出遅れて車道に飛び出した。
 ――間に合わない!
作品名:虚無 作家名:智生梨月