虚無
言って、罪悪感が胸の奥でちりちり疼き、声が震えた。父はそれを黙って見詰めている。
「グループのリーダーにやれって言われたの。凄く嫌だったけど、逆らったら、わたしがイジメられちゃうもの。そんなの、耐えられない。だから……」
言い終えないうちに、堰を切ったように声を上げて泣き崩れた。馬鹿みたいにひたすら泣いた。泣いて、泣いて、泣きじゃくった。涙と一緒に、それまで溜め込んできた気持ちも溢れてきた。絵菜も辛かった。ずっとずっと、苦しんできた。それが、途中から快感に変わってゆくのを感じて恐怖を覚えた。平田の苦しむ姿をもっと見たい、そんな自分を嫌悪した。
泣きながら、イジメは麻薬のようなものだ、と絵菜は思う。他人を傷つけているうちに罪の意識が磨り減り、いつしか快楽にかわる。今のままでは物足りなくなって、もっと刺激の強いものを、もっと過激なものを、そうやってどんどん深み落ちて溺れてゆく。誰かに止めてもらわないと、自分では抜け出せない、恐ろしい麻薬だ。
ひとしきり泣いて、絵菜が落ち着きを取り戻した頃、父が静かに頷いた。
「……おまえも苦しかったろう」
父の声色からあの凄まじいまでの怒りは消え失せ、優しい穏やかな物言いにかわっていた。絵菜は父の温かい言葉に涙が溢れた。自分の辛さを分かってくれたことが嬉しかった。
そんな絵菜の姿を見て、父と母は互いに目配せをする。母が心得たふうな面持ちで頷いた。
「でもね、絵菜。平田さんはもっと辛かったはずよ」
母は優しく言い含めるふうに言う。これに絵菜は黙って頷いた。
「人はね、一人でも味方になってくれる人がいれば、信じられないくらい強くなれるものなの」
今度は母が父を見る。それを受けて、父が後を続ける。
「絵菜、おまえがその役割を果たさなければいけなかったんだ。友達なら尚更だろう」
「お父さんの言う通りよ。起こってしまったことは仕方ない。でも、これからはあなたが平田さんを守ってあげなくちゃ。あなたまで見捨ててしまったら、平田さんは誰を頼ればいいというの。分かるわね?」
絵菜は目を見開いた。そんなことをしたら、絵菜がイジメられてしまう。
「そんなことしたら、わたし、イジメられちゃうんだよ。平田さんみたいな目に合うんだよ……」
明らかに怯えを含んだ声色に、母は複雑な笑みを浮かべ、
「それでもいいじゃないの。あなたには平田さんや母さんたちがいるんだもの」
母の言葉に耳を疑った。イジメられてもいい、今、確かにそう言った。
「イジメはもっとも卑劣な暴力行為よ。身体に受けた傷は時間が経てば癒えるけれど、心に受けた傷は滅多なことでは癒えないもの。下手をすれば、その人の人生に影を落としてしまうことだってあるわ。いい、絵菜。肉体的な暴力よりもイジメという暴力の方がずっと痛いものなのよ」
何を言っているんだろう、と絵菜は思った。そんな酷い暴力を平田の身代わりになって自分に受けろというのか。それを望むのか、愛する娘に。
「でも、庇ってイジメられたときに、平田さんがわたしの味方になってくれなかったら? わたし、独りになっちゃうんだよ……」
誰がわたしを助けてくれるの? そう問おうとして言葉にならなかった。悲しくて息がつまり涙が溢れた。
「その時はお父さんもお母さんもいるじゃない。……でもそうね、仮にそうなったとしても、絶対に平田さんを責めては駄目よ。人は弱いから、それを責めるような真似をしてはいけないわ」
人の弱さを責めるな、そう言いながら絵菜の弱さを責める両親の考えが、絵菜には理解できなかった。そして、平田の代わりに犠牲になれという、その言葉も。
本当は、父も母も絵菜の心配をしている振りをして体裁を気にしているだけのかもしれない。そんな考えが頭を過る。
「でも……」
「絵菜、落ち着いて良く聞きなさい」
言い差した言葉を父が遮る。
「イジメはいいことだと思うか?」
穏やかに、しかしながら力強く問う。絵菜は泣きながら首を横に振った。
「そう、イジメは悪いことだ。何があっても他人を傷つけていい道理なんてないんだよ」
でも、と声を絞り出すも、嗚咽が邪魔をしてか細い呻きにしかならなかった。
「イジメられる方にも原因があるという人もいるが、それは間違っている。裏を返せば、相手に気に入らない箇所を見つけたら何をしても赦されると言っているようなものだ。人に七癖、我が身に八癖という諺があるように、癖のない人間なんていないんだよ。それなのに、自分の事を棚に上げて他人の短所をあげつらい、虐げていいわけがないだろう」
でも、と絵菜は思う。確かに両親の言っていることは正しい。しかし、それだけでしない。この人たちは知らないのだ。イジメがどれほど陰湿で残忍なものなのかを。だからこんな無責任な正義を振りかざせるのだろう。
「おまえは俺が理不尽なことをいっているように思えるのか?」
絵菜の顔色から心中を察したのだろう、父が寂しそうにぽつりと漏らした。絵菜は俯いたきり、否定も肯定もしなかった。
「――友達を庇ってイジメられたっていいじゃないか。おまえは正しいことをしたんだ。いわば名誉の負傷だ。誇らしげに胸を張れ」
絵菜は愕然と項垂れた。――イジメられてもいい? 名誉の負傷? なんて酷いことを言うのだろう。
「絵菜がイジメられるようなことがあれば、母さん達が学校に怒鳴り込みに行ってやるわ! 母さん達はいつでもお前の味方なんだから、安心なさい」
絵菜は、何を寝ぼけたことを言っている、と呆れを通り越して憤りを覚えた。そんなことをしたら、かえって状況を悪化させるというのが、この両親にはどうして分からないのか。告げ口をしたと更に酷い仕打ちを受けるに決まっている。
そもそも、学校に乗り込んだとしても、素直に聞き入れるとは思えなかった。教師達の態度を見ても、学校側がイジメの存在を認めるはずがないのは、火を見るよりも明らかだった。絵菜はそれを身にしみて理解していた。
絵菜は口惜しそうに歯噛みをする。この人たちは本当に何も分かっていない。陳腐な正論など通用しない、そんなことも知らないで、勝手なことばかりを押し付ける。実際に高校に通っているのは絵菜であって両親じゃない。そして、イジメにあうのも。
どうしてそれを理解してくれないのだろう。絵菜だって十分苦しめられてきたのに。自分は平田のように守られるべく存在ではないのか。それなのに、なぜ責められなくてはいけないのだろう。本当に悪いのは絵菜ではなく、主犯格である遠藤たちだろうに。
そんな絵菜の気持ちを知ってか知らずしてか、母はなおも続ける。
「後悔してからじゃ遅いのよ。取り返しの付かないことになりでもしたら、この先、一生悔やみ続けることになるの。だから、あなたのためを思って言っているのよ」
言って、絵菜の前に膝を折る。
「お願いだから、頑なにならずに分かって頂戴、ね? あなたは賢い子だもの。本当は分かってるのよね。後で一緒に平田さんの家に謝りに行きましょう」
絵菜は、労わるように伸ばされた母の手を邪険に振り払った。それを見て、絵菜! と声を張り上げた父を、母が懸命に宥めすかす。