虚無
絵菜は咄嗟に平田の名を叫んだ。絵菜の声に平田が振り向く。二人の視線がぶつかる――刹那、ドンと鉄の塊が弾力のあるものに体当たりしたふうな鈍い音が響き、平田の身体が横へくの字に折れた。そのままボンネットへ乗り上げ、回転しながらフロントガラスに突っ込み、天高く舞う。頭から地面へ落下して、首が拉(ひしゃ)げ、地に赤い華が咲いた――赤く、大きい、不気味な華。頭を軸に背が不自然なほど弓なりに反る。まるで操り人形の糸を切り離したようにぐしゃりと地に崩れ落ちた。首も手足もあらぬ方へ捻じれている。まさに異形の姿だった。それが、小刻みに痙攣して、力なく放り出された手足がぴくぴく動いている。その上を、別の車が通り抜けた。車体を揺らしながら平田を踏み潰していく。そして、減速することなく走り去っていった。その後を、赤いラインが虚しく続いていた。
絵菜は目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。奥歯ががちがち鳴り、歯の根が合わない。呼吸の仕方を忘れてしまったふうに喘ぐ。必死に空気を吸い込もうとしてむせった。汗で服は濡れそぼり、顔は涙と鼻水とでぐしゃぐしゃだった。
床に手をついて重い身体を持ち上げる。壁に凭れかかって気だるそうに座った。震える手で顔を覆い、夢を見ていたことに気づく。また、あの夢だ。いつも同じ夢を見る。途中の経過は日によって異なるが、最後は必ずあのシーンで目が覚める。あの悲惨な末路、それが駒送りのように細かく、鮮明に、絵菜の脳裏に焼きついて離れない。
平田の最後について、学校側と生徒側で意見が分かれた。生徒はわざと車に飛び込んでいったという自殺説を唱え、学校側は、遺書もなく、自殺に値する理由が見当たらないと主張し、不慮の事故として片付けた。
自殺と言えば自殺、事故と言われれば事故のような気もする。それほど平田の最後はどちらともとれる曖昧なものだった。
絵菜にはそんなことはどちらでも良かった。平田が死んだ事実は変わらない。そして、平田の死を純粋に悼んでいる者は少なく、多くの者は、事故か自殺か、その是非を、机上の空論に勤しんでいる。警察は目撃者から供述をとったが、ナンバープレートを見たものは誰もおらず、車種も車体の色さえもあやふやで、ひき逃げ事件の解決の目星が立たない。これがいっそう議論を盛り上げた。イジメの主犯格である遠藤たちは、平田の死を自殺とし、まるで自分たちが素晴らしい功績でも残したように誇らしげに風潮している。
この学校では平田の死はただの話題の種でしかない。なんて薄情な連中なのだろう、絵菜は憤りを覚えた。そして、その日から高校を休んでいる。
絵菜は薄暗い部屋の中で、時々思う。平田が死んだのに、なぜ自分だけ生きているのだろう、と。
最後に平田は絵菜を見た。絵菜もまた平田を見た。それは自らの死を覚悟しての行為だったのだろう、絵菜はそう思っている。自殺に追いやった自分がなぜ生きているのか、それがとても奇妙な感じがした。なにかが酷く間違っている、そんな気さえした。
思いつめたあまり、カッターを手首に押し当てたことがある。深く切ったつもりが、大げさなくらい出血して暫くすると止まってしまった。失敗した原因を知りたくてインターネットで調べたら、どうも手首を切っただけでは人間は死ねないことが分かった。人が死ぬほどの出血を促すには動脈を切るしかないが、その動脈は身体の奥深くにあり、太い腱と太い神経に守られていて、麻酔なしでは到底切れないものらしい。湯船に付けるという手段もあるが、人間は失血状態に陥ったとき、酷い吐き気と寒気に襲われ、長い時間苦しむことになるという。その間に断念し、救急車を呼ぶ者が多いとか。では、一酸化炭素中毒ではどうか、とも考えたが、やはり苦しむことには変わらない。ならばいっそ薬で……けれども、市販の薬では大量に飲んだところで死ねないうえ、病院に搬送されて、胃の洗浄という死ぬほど苦しい思いをしなければならない。ならば簡単に断食で餓死――これは部屋の前に運んだ食事に何日も手をつけなければ、両親がドアを蹴破ってでも押し入ってくるだろうし、餓死ほど苦しい死に方はないと聞いたこともあり、結局自殺を断念した。
絵菜は今、自分が死んでいるのか生きているのか曖昧な時を過ごしている。実際にはちゃんと生きているのだが、絵菜自身が生きているという実感を持てずにいた。
絵菜はカレンダーに目をやった。今日の日付を赤く丸で囲んであり、下に小さな文字でHirata’s birthdayと付け加えてあった。平田がグループにいた頃、絵菜がカレンダーに書き込んだものだろう。絵菜は今日が平田の誕生日だったことを思い出す。
――生きてたら十七歳か。
思って涙が頬を伝う。生きていたら、それは違う。生きている方が自然なのだ。それを、
――わたしが殺した。友達を、殺してしまった。
あれが事故だったとしても、あの時絵菜が声さえかけていなければ、平田も足を止めず助かったかもしれない。だから、絵菜は平田の死に責任がある。
絵菜は思う。生きるとはなんだろう。息をすることが生きるということならば、絵菜は確かに生きている。しかし、今の絵菜はただそこにあるだけだ。それが生きるということなのだろうか。こうも虚空なものが、生か。
平田もまた生きていた。人に踏みにじられ、蔑まれ、車にすら踏みにじられた。それも生のあり方なのだろうか。
いくら考えても答えは見つからない。絵菜は長嘆して、ぼうっと天井を見上げる。しばらくそのままでいた。それから思い立ったふうに、窓辺まで歩いて行き、カーテンに手をかけた。
絵菜は眩しくて手をかざす。ひさしぶりの太陽だった。
蒼い空の下、素馨(そけい)の香りも爽やかに夏の風が吹いている。