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虚無

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 平田と呼ばれた少女は、口数が少なくおっとりとした性格で、この年頃には珍しく、化粧っけのない実に地味な子だった。しかし、その心(しん)はしっかり者で、他人の意見に左右されることなく自分の意見をはっきり言える少女だった。絵菜は平田のそういうところに惹かれてこのグループに加わり、気の置けない仲にまでなった。絵菜がこの学校で友と呼べるのは平田だけだった。けれども、時に長所は短所にも成り得る。このはっきり言う性格が災いして、平田はグループから追いやられるはめになったのだ。
 ことの発端は何気ない一言。それには絵菜のクラスいる、ある男子が関係していた。その男子はクラスの中で極めて異質な存在であった。その風体は、まるで黒いヘルメットを被っているような髪型に、背も小さく、猫背で、どもり癖のある、醜い少年だった。イジメられることはないが、周囲は事あるごとに彼を扱き下ろしていた。彼はそれを分かっているのかいないのか、喜色満面の笑みで返していた。遠藤はこの男子を心底毛嫌いしていて、ある日、自分達もからかってやろうと提案したのを、平田がやめておけといさめた。それが遠藤の癇(かん)に障ったのか、その日を境に遠藤は平田をことごとく無視した。
 もしかしたら、原因はそれだけではないのかもしれない。常日頃から遠藤と平田の間には僅かな齟齬(そご)が生じていた。成績も平田の方が遠藤よりも出来が良かったというのもいけなかったのだろう。
 それから、平田いびりに発展するまでさほど時間はかからなかった。最初は物を隠す、机に落書きをする、その程度のものだったが日に日に増長していった。クラスの連中も初めは傍観者を気取っていたくせに、そのうちこぞって平田いびりに便乗するようになった。おかげで彼女はすっかり孤立してしまった。
 五人に囲まれて逃げ場を失い、平田は壁の隅に身体を小さく丸めて蹲っていた。額を床のタイルに押し付けているため顔こそ見えないが、時折聞こえる嗚咽とそれに合わせて小刻みに震える肩を認めて、絵菜は密かに同情を寄せた。
「ほら、神木さんの番だよ」
 別の取り巻きに促されて絵菜は雑巾を握り締めた。彼女の身体は、絵菜が手を下すまでもなく、既に雨に打たれたように濡れそぼっている。遠藤達が水を含ませたモップで平田をからかい、こうなったのだ。その姿があまりにも痛々しくて、絵菜は酸っぱい物が胃から込み上げくるのを感じた。
「どうしたの? 遠慮しなくてもいいんだって」
 遠藤に背を押されたはずみで一歩前へ踏み出す。その気配に気づいた平田が弾かれたように顔を上げ、絵菜を真っ直ぐ見詰めた。悲痛な色を湛えた目は、何かを必死に訴えている。絵菜はたまらず、視線をそらした。
「ほらあ、どうしたあ?」
「神木さーん、平田が暑いってよぉ」
 取り巻き達が立ち尽くす絵菜を茶化す。絵菜は困惑した面持ちのまま床を見つめていた。
 これは酷いことだ、絶対にやってはいけない。しかし、ここで拒めば、次は絵菜があそこに蹲る番だ。それだけはなんとしても避けたい。
 周囲を見やれば、誰も彼もが、絵菜が次にどういう行動に出るのか面白そうに様子を伺っている。
 ――酷い。
 昨日までは見ているだけで許されたのに、今日はイジメに加担しろという。
 見て見ぬ振りをするだけでも罪の意識に気が咎めた。まるで胃を鷲掴みにされたように苦しかった。けれど、絵菜には平田を庇うだけの勇気が持てなかった。だから、直接手を下していない事実だけが、せめてもの慰めだったのに。
 絵菜は、ちらりと遠藤を見やる。その視線を受けて、遠藤は絵菜を見据える。その目が語る――こうなりたいのか、と。
 絵菜の顔が僅かに強張った。平田のようになるのは嫌だ。そんなことは耐えられない。だが、ここで手を下せば自分も彼女達も大差ない。でも。
 ――果たして本当にそうなのかな。
 強い疑念が頭をもたげた。彼女達はイジメという罪深いことをしている。しかし、自分可愛さのあまりそれを黙認することも同じように罪深いのじゃないだろうか。絵菜は自分を蚊帳の外に追いやることで保身に走っている。そうすることで、自分だけ真っ当であろうとしたのだ。それは直接手を下すよりも卑劣なことなのかもしれない。
「神木さーん、どうしちゃったんですかあ?」
「神木ぃ、まさか平田なんかに同情しちゃったわけ」
 取り巻きの少女達が、硬直したまま微動だにしない絵菜に野次を飛ばす。暗に、意気地なし、と責めているのが分かった。
 雑巾を握る手が震えた。してはいけないという罪悪感と、早くやれという焦燥との鬩ぎ合いが、絵菜の心を激しくかき乱す。
 ついに耐え切れなくなって、この場から逃げ出そうと踵を返した絵菜の腕を、遠藤が逃がさんとばかりにがっちり掴んだ。
「どこへ行くつもり?」
 遠藤は絵菜の腕をしっかり掴んだままやんわりと笑んだ。絵菜は背筋に薄ら寒さを感じ、はっと我に返る。途端、後悔の念にかられた。
 ――わたし、何をしようとしたの。
 赤みを帯びた健康的な顔から徐々に色が失われてゆく。反射的に平田を見やれば、訝しそうな顔をしていた。その一方、取り巻きの連中は新しい玩具を得たふうな面持ちで絵菜を見つめている。
 絵菜は恐ろしくなった。このままでは標的にされてしまう。我が身に降りかかる危険を察知して、言い訳を考えるよりも早く体が動いた。力任せに遠藤の手を振り払い、雑巾を平田に投げつけた。自分でも信じられないくらいしなやかな動きで、遠藤の足元に置いてある、水を張ったバケツを手に取り、平田めがけてぶちまける。
 つかの間、周囲から音が消えた。この場にいる誰もが呆気にとられている。当の絵菜も自分の取った行動が信じられずに茫然自失している。水を浴びせられた平田すら何が起きたのか理解しかねたふうにぽかんと呆けていた。
 トイレに重苦しい沈黙が降りた。時間の流れが途絶えたように誰も動かなかった。当座、その状態が続いた。
 先に沈黙を破ったのは、取り巻き達の嘲笑だった。
「うっわー、神木さんて結構だいたーん」
「平田カワイソー」
「神木っていい性格してるねぇ」
 それを皮切りに、時間が息吹を吹き返したように滔々と流れはじめる。
 平田は悲痛な面持ちで声を立てずに涙を流した。平田の目から溢れた涙が頬を伝い、スカートをきつく握り締めた手の甲にぽたりと落ちて、散った。
 それを見て、絵菜は言葉を失う。口の中がからからに渇き、胃がきりきり痛んだ。胸を押しつぶされたような苦しさに襲われ、バケツを抱える手が震える。眉間の辺りがつんとして、視界が歪んだ。大きな塊が喉を塞いでしまったかのような息苦しさを覚え、身を裂かれんばかりに胸が痛んだ。
 おかしい、本当に痛いのは平田だろうに。踏みにじられ、蔑ろにされ、そこに蹲っている。だのに、絵菜もまた、辛く、苦しく、痛い。
 ――こんなはずじゃなかった……こんな、こんなはずじゃ……。
 絵菜は怖かった。我に返った瞬間、平田の姿と己の姿が重なって、ただただ恐ろしかった。どうにかしたい一心で必死だった。本当にそれだけだった。別段、平田を傷つけたかったわけではない、それも本当だった。
 ――傷つけるつもりなんてなかったのよ!
作品名:虚無 作家名:智生梨月