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虚無

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日は高く、空は澄み、鋭利な斜度から差し込む陽射が、時折カーテンの隙間を縫って机を照らし、室内に影を落とす。
 気温は三十度を超え、熱中症による死亡者が十人を超えようかという猛暑の中、生憎備え付けのクーラーは故障していて全く役に立たない。
 仕方なく押入れから扇風機を引っ張り出すことにした。けれど、やはりそれだけでは間に合わず、案の定窓を開ける羽目になった。
 しかし、涼を求めて開け放った窓は、その思いとは裏腹に、息苦しいほどの熱を帯びた風を招き入れるばかり。ただでさえむっとする暑さのせいで動かずとも汗が滴りべとつく身体が不快だというのに、外から聞こえてくるあぶら蝉のけたたましい鳴き声がいっそう不快感をあおった。
 絵菜はフローリングの床に寝そべり、溜息を漏らした。――身体がだるい、何もする気がおきない。
 こうやって寝転んだまま半日を過ごした。ベッドサイドに置かれた時計の針は正午をさしていた。
 何者かが階段を上って来たらしく軽い音が床を伝う。階段を昇りきったのだろう、歩調に合わせて廊下の床が軋み、部屋の前でぴたりとやんだ。絵菜は首だけをそちらへ向けて次の音を待つ。次に何が起こるのか、絵菜はすでに知っていた。
 しばらくして、部屋のドアを遠慮がちにノックする音が聞こえた。
「絵菜、起きてるんでしょう?」
 ドアの向こうからくぐもった声がする。
 返事をするのも億劫だが、無視をすればあとあと面倒なので、溜息を一つ吐き、渋々口を開く。
「起きてるけど、なに?」
「――今日は天気が良いし、気分転換に外に出てみない?」
 板一枚隔てて外にいる人物は、一拍置いて返事をする。いかにもこちらの出方を伺うふうな物言いに絵菜は不快そうに顔を歪めた。
「だるいからいい」
 絵菜が憮然と答えれば、
「だるいって言ってもここのところずっとこんな調子なのよ?」
 と、声の主は優しげな口調で食い下がる。絵菜は言外の含みを感じ取り、忌々しげに舌打ちをした。
「だるいからいいって言ってるだろ! あんた、しつこいんだよ」
 嶮を含んだ怒声を、絵菜、とくぐもった声がいさめた。
「親に向かってそういう口の利き方は止めなさい。――ねえ、絵菜。そのままでいいから聞いて頂戴……」
 これから長い説教が始まるのだろう、絵菜はまた溜息をついた。
 ここ三ヶ月の間、いつもこの繰り返しだった。――いつまで部屋に篭っているつもりなの? 学校はどうするの? 今時分高校ぐらい卒業していなくちゃこの先大変よ――耳にたこが出来るほど聞かされた台詞。
 それを聞かされるたび絵菜は決まって黙り込む。話すだけ無駄だ。どうせこの親に理解できるはずがない。内から沸き起こる怒鳴り散らしたい衝動をぐっと堪えて耳を塞いでいれば、それでいい。相手にしなければ空しくなるのか、そそくさと階段を下りて一階へ消えて行く。そして、夕方を迎えたころ、仕事から帰宅した父に愚痴をこぼすのだ。それが原因で口論が始まる。お前の躾がなってないとか、あなたは子供に無関心すぎる、とか。そういう言い争いが続くうち自然と口論は白熱し、親の責任についての所在のなすり付け合いに発展する。だが、苛烈極まる口論に終止符を打つのは、決まって母であった。父にぞんざいに遇われた母が必ず「全部私が悪いのよ。そうなんでしょ」と決まり文句を言い捨てて泣き崩れるからだ。
 ――本当に鬱陶しい。
 元来、絵菜は家にいるよりも外出を好むタイプだった。性格も快活で、暇さえあれば中学校時代の友人と遊びに行ってしまい、家を空けることが多かった。今は休んでいる高校も、クラスにはアクの強い連中が揃っていて馴染むまでは大分気を揉んだりしたが、それほど嫌ではなかった。だからといって、次の日が待ち遠しいほど楽しくもなかったが。
 両親との関係も特に問題はなかった。中小企業の中間管理職で融通の利かない父と、近所のコンビニで日銭を稼ぐ気立ての良い母と、それなりに上手くやっていた。他の家庭より図抜けるほど出来た家族ではなかったが、一般的な家族像ではあった。
 その絵菜が、今ではこうして部屋に引篭もり、自ら外界との繋がりを断ち切ろうとしている。掛け違えてしまったボタンのずれが、絵菜を六畳半の部屋に縛り付けているのだ。
自分はそこまで大きな過ちを犯してしまったのだろうか、カーテンが遮光を遮り、一つぶんの電気しか点けていないほの暗い部屋の中で自問自答を繰り返す日々を送っていた。
 絵菜は母の声を遠くに聞きながら、腕を枕にして寝返りを打つ。力強い生命の律動と全身を流れる血液の潮騒が鼓膜を揺さぶり、それがなんとも心地よい。
 絵菜はゆっくり目を閉じ、潮騒に耳を澄ました。こうしていれば、嫌なことも全て忘れられる気がする。
 束の間、こうしていただけで尖っていた気持ちが幾分やわらぐ。ある程度気持ちが落ちついてくると、最近寝つきが悪いせいもあって、頬に伝う腕の温もりが眠気を誘い、うつらうつらと夢うつつ。絵菜の意識はあちらとこちらの境を彷徨い始めた。
 もはや自分が眠っているのか起きているのかさえも定かではない混沌とした意識の中、どこからか潮騒に交じり、母のものではない少女の声が耳に響いた。
 ――大丈夫だって。
 悪戯っぽく笑う無邪気な声。
 ――ねえ、それって酷くない?
 その言葉とは異なり、声の調子が妙に浮き立っている。
 ――だって面白そうじゃん。ねえ、そう思うでしょ?
 絵菜に注がれる好奇の目。その目に期待が込められているのを悟り、絵菜は苦笑ともつかない複雑な笑みを浮かべる。
 ――神木もやってみなって。絶対面白いから。
 否、とは言わせない強引な響きを持たせた言葉。その期待を裏切らないよう必死に笑顔を繕おうとする、自分がいた。


「絵菜はいつも見てるだけだから分かんないと思うけど、マジで楽しいんだって。一回やってみ」
 モップを手にしたクラスメートの一人が、開いている手で絵菜を近くに引き寄せ、足元にあるバケツの中から水を含んで重たくなった雑巾とりだす。
 悪びれる様子もなく嫌がる手に強引に押し込めた。指の間から水が一滴、また一滴と滑り落ち、床に弾かれ放射状に散ってゆく。
 絵菜は今、クラスメートと放課後の女子トイレにいる。
 クラスには仲の良い者同士が集まってできたいくつかのグループがあり、絵菜が行動を共にしているこのグループは、雑巾を手渡した少女を筆頭に絵菜を含めて全部で五人。初めは六人だったのだが、残念なことに一人抜けてしまった。
 リーダー格の少女――遠藤千歳は、成績もそこそこで行動力があり、周囲を統率してくれる頼もしい存在だった。けれども、良い面ばかりではない、というのが人の常だろう。
「モップはもうないから、雑巾で我慢してね」
 嬉々として言う遠藤のかたわらに蹲る影が一つ。その背がぴくりと震えた。
「平田、良かったね。今日は暑いからさあ、神木さんが涼しくしてくれるってさ」
 取り巻きの一人が、蹲る平田をモップで突付きながら、さも愉快げに笑う。
作品名:虚無 作家名:智生梨月