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Musik ~むじーく~(中原編)

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 オーケストラの弦楽器は、一つの譜面台を二人で共有している。その位置関係をアウト(観客席側)とイン(舞台側)と呼び、譜面はインに座る奏者が捲ることになっていた。今日の練習で言えば、さく也が捲る側となる。新見はさく也に譜捲りをさせることが申し訳ないと思って、席を換わりたいらしいのだが。
――くだらない
 フル・スコア(総譜)ならともかく、パート譜では一曲の内に捲る回数などたかが知れている。演奏に支障が出るほどではないし、さく也自身、面倒に思ったこともない。インに座れば、誰だってすることだ。今までだって何度も座ったことがある。ソリストとして参加しているのならともかく、オーケストラの一員としてパート席に座っているのに、何を寝惚けたことを言っているのだろう。そんな当たり前なことを気にして演奏に集中出来ないなど、さく也には考えつかない理由だった。
 だから正直な気持ちが言葉になる。
「そんなくだらないことで、演奏出来ないのか?」
 さく也は新見を見つめた。彼の目線はさく也のそれを受けてはいるものの、微妙に焦点がぶれて落ち着かない。
 二人の間には奇妙な沈黙。さく也は新見を見つめ、新見は伏目がちに時々目を上下させる。その何とも言えない雰囲気は周りに知れるところとなり、ついには悦嗣から声がかかった。
「どうかしたのか、中原?」
 さく也は悦嗣を見た。苦笑一歩手前と言った表情が浮かんでいる。彼にも新見が演奏に集中していないこが見えているようだった。
 音楽に関係ない取るに足らないことで、指揮者や他の演奏者を煩わせたくない――さく也は「何でもありません」と答えて、楽譜を最初のページに戻した。




 さく也は外階段の辺りで悦嗣の姿を見つけた。その場所は彼が休憩時間に喫煙するお決まりの場所である。いつもであればさく也も一緒だったが、今日は練習場に残された。代わりについて行ったのは新見だった。ついて行ったのではなく、呼び出されたのだが。
 前半の練習時間、新見の集中力は散漫なままで、「ぼろぼろ」を体現したかのような演奏だった。弓は何度も止まり、一度は落としかけた。ずっとそんな様子だったから、悦嗣も話を聞かずにいられなかったと見え、休憩に入ってすぐ彼を伴い、練習場から出て行った。
 さく也は少し反省している。言葉の選び方がいくつになっても下手なままだ。日本語は英語よりも苦手で、ついついストレートな物言いになってしまう。遠回しに言うことが出来ない。それでなくてもコミュニケーションの取り方が今一つで、冷たい等の誤解を招きやすい性質(たち)である。そんなさく也が言ったことに新見が動揺して、集中力を取り戻せなかったのかも知れない。もしそうなら、彼の不調が、彼のせいばかりではなく、一言、悦嗣に言っておくべきではないかと考えた。
 それに席の件での『くだらない理由』は、さく也も持っている。まだ新見が悦嗣と一緒にいるのなら、次の練習で席を換わることを申し出ようと思った。
「エツ」
 外階段への入り口のところで、さく也は声をかける。悦嗣は目線を寄越し、背を向けて立つ新見は振り返った。
「じゃ、僕はこれで」
と新見は悦嗣に言って、それから踵を返して出入り口に向かって来る。すれ違い様に彼がペコリと頭を下げたので、さく也も返した。目を合わすことも話をさせる暇も与えず、新見は慌てて中に入ってしまった。
「話、途中だったのか?」
「いや、終わったとこだ。どした?」
「彼のことで」
 さく也は悦嗣の隣に、同じように手すりに背を凭せ掛けて立った。
「新見な。ああ、話はあいつから聞いたよ。席の件で揉めたんだって?」
「少し、きつく言い過ぎた」
「まあ、くだらないことだと俺も思うけど。ただ相手がおまえだから、仕方ないんじゃないかな」
 悦嗣は、さく也がアマチュア演奏家達にとって、どれほど特別なのかを話した。それ一本で生活しているプロの演奏家と言うだけでも別世界の存在である。名だたる国際コンクールのタイトルを総なめにして、主な活動場所は欧州、日本では滅多に生の音を聴けない、そして名声だけは伝わってくるヴァイオリニストであるとなると、遠巻きに見てしまうのは仕方がない。頭では同じオーケストラのメンバーだとわかっていても、やはり普通に接することは難しいのだと。
「だから、たかが譜捲りくらいのことで気を遣う。そんなことのために緊張して、集中出来ないのさ。特に新見は、小学校の時に習っていた程度だから、自分との音の差に萎縮してる。おまえには思うところもあるだろうけど、席、換わってやってくれないか?」
「うん、そうしようと思っていた」
 さく也の即答に、悦嗣は「おや?」と言う表情を浮かべた。
「何?」
「いや、練習じゃあ、機嫌悪そうだったから、そう簡単に『うん』と言うとは思わなかった」
 新見の頼みを二度も一蹴したと聞いて、オーケストラの一員としてさく也なりにポリシーがあるからだと思ったと、悦嗣は続けた。
 さく也が頼みを断ったのには、そんな高尚な理由などない。単に、今日の席が気に入っていたからだった。セカンド・ヴァイオリンの最チェロ寄り。指揮者席からはほぼ真正面。指揮者のどの角度の表情もよく見えた――これこそ最も『くだらない理由』に他ならない。
「ポリシーなんてない。ただのわがままだから」
「わがまま?」
「今日の席が、気に入ってる。…それだけの理由」
 口に出すとかなり恥ずかしい。さく也の言葉尻は曖昧に途切れた。意味がわからず悦嗣が聞き返すので、
「エツの顔がよく見えるから」
と正直に答える。途端に首筋から熱くなるのを感じ、目線は自然と下に落ちた。
 一瞬の沈黙の後、悦嗣は小さく噴出し、笑う声が続いた。さく也が上目使いに見ると、彼の手が頭に伸びてきて、くしゃくしゃと撫でる。
「おまえの答えは妙に深い意味がある時と、すごくストレートな時があって、いつも予想外だな。まさかそんな理由で新見を萎縮させてるとは思わなかった」
 さく也の首筋の熱りは顔に広がった。きっと発赤しているのだろう。頬は一層の熱を帯びていた。悦嗣の手はさく也の頭から頬に移動し、軽く摘まんだ。
「こんな顔、見慣れてるだろ?」
 優しい恋人の顔は見慣れているが、音楽家としての彼は滅多に見られない。本来の鍵盤奏者の位置はセカンド・ヴァイオリンからは遠いし、たいてい演奏会間近の練習、あるいは当日のゲネプロにしか参加出来ないさく也には、悦嗣が指揮者席に座って指導する姿を見る機会はほとんどなかった。だからこそ今日は、さく也を意固地にさせたのだ。しかしそうした想いは、言葉に出来なかった。
「俺はさく也を正面に見るのは嫌だよ」
 黙りこんださく也に悦嗣が言った。
「ついつい見ちまうからな」
 悦嗣は苦笑して、さく也の頬を一撫でして手を離した。それから腕時計を見る。休憩時間は十五分ほど。さく也がここに来た時には十分は過ぎていたと思われるので、戻らなければならない頃だろう。
「そろそろ戻るか。席の件はよろしく頼むな。新見にはインに座るように言ってあるから」
 悦嗣はさく也の肩を軽く叩いて促す。さく也は耳まで赤くしたまま辛うじて頷き、彼の後に続いた。