天上万華鏡 ~地獄編~
これについても、皆動揺し、仁木に対する不満が噴き出ようとしていた。暴動が起こる直前のような険悪な雰囲気が殷を包んでいた。しかし、そうなることは仁木はおろか、カラスや元老院、法学者達にも分かっていた。仁木以外の者は、そうなることを恐れ、仁木に対して猛烈に反対した。しかし、仁木はそれを毅然とはねのけた。しかしそれでも納得しない。最後に仁木は、もしもの場合、自ら帝の位を退くという条件を提示しどうにか納得させた。
元老院や法学者は、早く暴動が起き、仁木を失脚できないかと虎視眈々と狙っていた。
「カラスよ。兵達や重臣の者どもも含め、全ての民を城門入り口の前に集めよ。これより私が民に向かって檄を飛ばす」
「かしこまりました」
暫くして、城門近くに数十万の民が集まった。仁木は城門の上に立ち、ゆっくりマイクの前まで歩いていった。見渡すと、皆仁木を憎しみの表情で睨んでいた。仁木は、目を閉じて大きく深呼吸をすると、キリッと前を見据え、口を開いた。
「殷の民よ。私は殷帝、仁木龍生である。これより発する私の言葉を、貴様等の胸にしかと刻みつけよ」
高圧的な仁木の言葉に民の不満はうめき声となって地面を震わせた。
「貴様等は、生前罪を犯してここに来た。その罪を悔い償う気持ちが当初あったはずである。しかしながら、そんな良心につけこみ、傷つけようとする輩が氾濫していた」
そんなこと当たり前だ。そんな声が聞こえてきそうな表情を浮かべながら仁木を睨む民衆達。静まりかえってはいるが、民衆達の憎しみが静かなうねりとなって仁木を取り囲んだ。
「その結果、良心に従い行動するのは愚かだと魂に刻みつけ、欲望のみを追い求める木偶に成り果てた。そうであろう?」
不敵に挑発する仁木。それに対して我慢の限界を超した罪人たちは、奇声にも似た叫び声をあげていた。怒りのあまり言葉にならない。獣のようなその声は明らかな狂気となって仁木にぶつけられた。しかし仁木は、その声を意に介すどころか、むしろ笑みを浮かべながらその光景を眺めた。そして静かに口を開く。
「怒りに震える殷の民よ。ならば聞くが、それで貴様等は幸せか? ほんの一瞬でも安らぎを得たのか? むしろ逆ではないか? 他人の財産を搾取しながらも自分のものも同様に搾取されるのではないかと常に不安だったのではないか? 他人を虐げ喜びながら、いつ自分が虐げられるのかと震えていたのではないか? 貴様等が追い求める快楽の先にあるものは失うことへの恐怖なのだ! 決して幸福などではない! むしろ快楽に溺れる貴様等は不幸なのだ!」
目を見開き民衆を睨みつける仁木に皆息を呑んだ。いつ降りかかるともしれない災難に対する不安。それを忘れるために溺れた快楽。しかしその快楽が災難に対する恐怖感を煽るという負の連鎖。全て分かっていたはずなのに、過酷な現実を前に目を背けていたのである。
仁木の檄はそんな心を見透かし、狂気に溺れた魂を大きく揺さぶった。虚をつかれた民衆達は、あんぐりとした表情を浮かべるのみで何も言葉を発する事ができなかった。その様子を見届けた仁木は、追い打ちをかけるように言葉を続けた。
「貴様等に必要なのは快楽ではない! 安らぎなのだ。失う事への恐怖から解放される安らぎなのだ。この修羅地獄の責め苦は刑務官等によるものではない。貴様等同士の潰し合いなのだ。互いに手を取り、労り合う事ができれば、ここは地獄ではなくなる。楽園になるのだ。私はその楽園を築きたいと思っている。目先の快楽に囚われるな。真の幸福を見据えよ」
「そんなの嘘っぱちだ! 何が幸福だ。何が安らぎだ。そんなもの地獄に来た時点で捨てて来た! 地獄門にみんな置いてきたんだよ!」
罵声を浴びせたのは意外にも仁木の側に立っていた宰相だった。憲法改正に一番反対したのもこの宰相。しかし立場上、帝を支えていかなければいかないために、仁木の言動に異を唱えながらも渋々従っていた。しかし、仁木の檄を聞き、耐えきれずに口を挟んでしまったのである。
民の前で帝の言葉に口を挟む。これは帝の顔に泥を塗ることになり、明らかな反逆。思わず言ってしまったとはいえ、我に返ると自分が辿るであろう転落の道に恐怖を覚えずにはいられなかった。
「申し訳ありません……私はただ……」
何も言い訳は通じない。そんな思いから、宰相は震えながら口をつぐんだ。
「宰相よ恐れるな。私は貴様を処分しない。むしろ憐れんでいるのだ。貴様は、その地位からいつ転落するか脅える日々だったことだろう。転落するぐらいなら上にいる者を逆に転落させ、這い上がっていくしかない。そう思ったことだろう。貴様はその地位にいながら、ここにいる誰よりも不幸なのだ。幸福に程遠いところにいながも、自分が幸福だと言い聞かせながらここに立っていたのだ。恐れるな宰相よ。私は貴様を解任しない。貴様の地位は盤石なのだ。だから恐れおののく必要はないのだよ」
思わぬ言葉に腰を抜かしながら崩れ落ちる宰相。その目や鼻からは、だらしなく粘っこい汁が垂れていた。
それを見つめる民衆たちは、仁木の言葉をどのように捉えればいいのか苦慮していた。宰相に対する温情は単なるパフォーマンスで、憲法改正を納得させるための方便にすぎないのではないか。人を信じることで痛い目を見続けていた罪人たちは、あまりにもできすぎている目の前の出来事を、安易に受け入れることができなかった。。
もしかしたら、宰相も仁木の言葉を印象づけるために仕込まれたさくらかもしれない。そこまで考えた。
怒りの叫び声は消えたが、代わりに疑惑の視線が浴びせられた。
これまでの確固たる常識。快楽を求めることが善である考え方に揺らぎを見せるかと思われたが、凝り固まった猜疑心までは消すことができなかった。それ程までに罪人たちの魂は荒んでしまったのである。信じると騙される。搾取しないと搾取される。潰さないと潰される。失うことへの恐怖が奪うことへの衝動へと突き動かす。まさに仁木の指摘した通りではあったが、その言葉さえも自分たちを騙す罠かもしれないと思わずにはいられなかったのである。
仁木の言葉に乗ることができない民衆達。この現象にいち早く気付いたのは、仁木の側に座っていた将軍、紂王だった。
紂王は、これ以上仁木が何を語っても民衆たちの心をつかむことができないと考え、思わず立ち上がって仁木のマイクを手にした。
「紂王……」
この行動には流石に仁木も驚いた。
「陛下……ここは私が民を……」
紂王は、真剣な面持ちで仁木を見つめた。仁木もまた紂王を黙って見つめる。無言で目を合わせること数分。仁木はふっと微笑むと、
「分かった。ここは君が収め給え」
と言い、一歩下がった。
「私は陛下より、ジョニービルにいる新人共を捕獲する任を賜った。しかし、その任を全うすることができなかった。君たちにはこれが何を意味するのか容易に分かるはずだ。そう、万死に値する。しかしどうだ。私はここにいる」
民衆たちは紂王が何を言いたいのか図りかねていた。首をかしげながらも何か興味深い話が聞けるかもしれないという期待を同時に感じながら耳を傾けた。
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ