天上万華鏡 ~地獄編~
リストと名乗るこの男。うなじが隠れるほどの茶色の髪をオールバックでまとめた細身の西洋人である。鋭い目つきから神経質な性格を思わせる顔だった。
「え! リスト?」
ハルはリストの名を聞いて飛び上がるほどびっくりした。
「ハル知ってるの? また女学校?」
「知ってるも何も……西洋音楽やっていたら知らない人はいないぐらいの人だよ」
この言葉にびっくりしたのは、マユやスワンではなかった。
「リスト君。君はそんなに有名なのか?」
「笠木な、俺が有名かどうかお前に関係ないだろ? じゃあ何か? 有名だったら土下座でもしてくれるのか? 権威主義の憐れな末路を見せてもらえるのかな?」
目を輝かせながら毒を吐くリスト。笠木は苦笑いをしながらハル達に目配せをした。
「偏屈というのは……毒舌家ということ?」
「マユが毒舌家という程だから余程だということだよな……」
無言でスワンを睨むマユ。普段だったらそこで嫌みの一つでも言うマユだったが、ここで口を開くと、リストの思わぬ口撃が飛ぶような気がして言うのをやめた。
しかしハルだけは、著名な作曲家に会えた喜びに溢れ目を輝かせていた。そのためか、歌う予定もないにも関わらずテンが召喚された。
「毒舌家というよりサドじゃないか? 笠木さんに毒吐いている時の顔ったら超うれしそうだったぞ」
「君はスワン君と言ったね? 察しの通り俺はサディストだ。認めるよ。だから分かるんだよ。君はマゾヒストだな? そんな顔をしている。虐められると恍惚とした表情を浮かべて這いつくばるタイプだろ?」
「な……な……何を言ってるんだ! マゾだと?」
「口ごもる辺りが図星だな。そこのお嬢ちゃん。マユ君だっけ? 彼女は俺と同じ空気を感じる。マユ君からいたぶられて快感を得ていたんだろ?」
「それはカムリーナだ!」
「そんなムキになることないじゃないか。違ったら聞き流せばいいこと。挑発された言葉を全て拾い上げようとする心意気。流石マゾヒストだな」
眉をひそめながらしみじみと話すリストだが、その瞳の奥は歓喜に溢れていた。リストのサド心が更にエスカレートしようとしていた。その感情に比例するようにスワンの目には涙が溢れ、今にも泣きそうになっていた。
「ほら、もうすぐ泣くだろ? そして不幸な自分に酔いしれるんだよ。マゾヒストって変態だよな?」
「リスト君、もう十分だろ? マゾ縛りは」
笠木は呆れたようにため息をつきながらリストに語りかけた。
「マゾ縛り?」
マユは自分が好みそうな言葉に思わず聞き返した。
「リスト君の変わった趣味なんですよ。相手を言葉で追い込んで、自分はマゾなんじゃないかと思わせる言葉遊び」
「俺はマゾじゃないぞ!」
号泣しながら笠木にすがりつくスワン。リストは自分が仕掛けたマゾ縛りの完成品としてのスワンを眺めながらニヤリとした。
「分かってますよ。スワン様はマゾじゃない。ご安心を」
笠木にすがり泣くスワン。しかし、ねっとりとしたリストの視線に気付くと、極端に怯えた表情をしながら、笠木の背後に隠れてリストの視線から逃れた。
「おやおや、そんなに怖がらなくてもいいのにな。俺がかわいがってあげるのに」
「ひーーん!」
「いつも白鳥君こんな役回りだよね……」
「そうだよな……錦鯉のにぃちゃんって活躍しているのにむくわれねぇ」
そんなリストの個性が爆発して混乱の渦に巻き込まれている最中、ハルだけは、まだ恍惚とした表情をしていた。テンが召喚されていてもそれに気付かない程だった。その様子に気付いたリストは、ハルの様子をじっと見つめた後、その背後にいるテンに注目した。テンはハルが歌う時に召喚される存在。当然常にバイオリンを持っている。そのバイオリンにリストは反応したのだ。
「そこの天使っぽい君。手にしているのはバイオリンだろ? 折角だからセッションしないか?」
「え?」
急な提案にハルはびっくりした。リストとテンのセッション。信じられない組み合わせに目を大きくした。一方、相変わらず落ち着いた様子で笑顔を崩さないテンは、リストに視線を移すと、小さく頷いた。
「テンちゃん……」
歴史に残る名作曲家であり、名ピアニストであるリストを前に物怖じしていたハルだったが、テンはそのような素振りを一切見せずにバイオリンを構えた。ハルはその度胸に驚いたが、それ以上に自分の幻影であるテンがリストとセッションすることが未だに信じられなかった。
リストはテンの構えを見届けると、ゆっくりピアノの椅子に座り、何も言わずに演奏を始めた。
チゴイネルワイゼン。ハルはリストの前奏を聴いただけで分かった。この曲は、非常に派手で劇的な展開を示しながらも、時折女性のような繊細さをちらつかせる人間味溢れる名曲である。
これまでテンは、ハルの歌に合わせることしかバイオリンを演奏する機会がなかった。今回のように、クラシック音楽を正面から演奏するのは初めてだった。だからこそハルは、テンがどんな演奏をするのか心配だった。
しかし、その心配をよそにテンは絶妙なタッチで情熱であり繊細に演奏した。ハルは初めてテンの演奏をじっくり聴いた。自分の歌に必死でテンの演奏を集中して聴けなかったこれまでとは違うのだ。そしてじっくり聞いたテンの演奏は一流だった。それ程に非の打ち所のないものだった。
「テンちゃん……」
そう思わず呟くハル。テンの凄さを改めて実感したハルはそう言わずにはいられなかった。そう思ったのはハルだけではなかった。セッションしているリストも同じ気持ちだった。
リストは、有史以来、彼の右に出るピアニストはいないと言える程のピアノの天才である。テンとのセッションも、腕に見合わぬ楽器を飾りのように持つ輩が多いことへの反発だった。
しかし当初の思惑とは逆に自分が追い込まれていた。テンの演奏に飲み込まれそうになったからである。リストは、そこから逃げ出すかのように、即興で楽譜を変え、無理に難易度を上げていった。曲の速さは変わらないが、音符を極限にまで増やしていく。それに応じてリストの動きは激しさをましていった。
これでついてこれないだろうと鼻で笑ったリストだったが、すぐにテンも同じように即興で楽譜を変えていった。最早バイオリンの弓が見えなくなるほど早く弾かれ、弦を握る左手の指も常識を越える速さで動かされていった。それでいてテンの表情は音楽に浸り、うっとりとしていた。
リストの表情は一転した。ここまできて音楽を楽しんでいるテンに畏怖さえ覚えた。
丁度ここで、三部構成のうちの最終部にさしかかった。これまでの曲調から一転して更にテンポが速くなる。元々極限まで難易度を上げてた演奏が更に難しくなる。リストは迫り来る乗り越えられない壁を感じていた。多分もう演奏できない。音楽家として完全な敗北が迫ってきていると覚悟した。
しかしテンは変わらぬ笑みをこぼしながら、リストを見つめた。最終部にさしかかった瞬間、テンは逆にテンポを落としたのだ。それにつられてリストもそれに従った。
テンは何も口には出さないが、リストに語っていた。視線と表情でリストに訴えていたのである。それをリストは見事に受け取った。
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ