天上万華鏡 ~地獄編~
第1章「地獄の洗礼」
目を開けると、コンクリートが剥き出しになっている粗末な天井が見えた。思わず手を見る。そして手首から腕まである自分の服を見つめた。女物の白いブラウスはきれいなものだったが、先程まで床についていた部分は、埃で灰色に染まっていた。
この者の名は「城島春江(じょうじまはるえ)」という。しかし、ここは地獄。春江は死後、重罪を犯してしまった。そのため、天国に行くことが許されず、その代わり、地獄に堕とされた。地獄の罪人には一切の希望や夢をもつことが許されない。自分のこだわりや嗜好なども全て捨てなければならない。名前も同様である。じきに春江は、春江という名を失うのである。
春江は、周りを見渡したが、二十畳程の部屋の中に誰もいなかった。それどころか、物一つなかった。埃っぽいこの部屋は何のためにあるのか皆目見当がつかなかった。
ここは本当に地獄なのだろうか。そう思わずにはいられなかった。春江にとって地獄とは、針山地獄や血の池地獄など、鬼が罪人を虐めるというイメージがあった。しかし、目の前にある光景は、そのイメージからかけ離れているものだったからである。
もう一度、辺りを見渡した。やはり自分しかいない。ここか本当に地獄なのかということ以前に、地獄に墜ちる前に共にした仲間がいないことが、春江を不安にさせた。
春江は、死んだばかりの時も独りぼっちだった。しかし、次第に仲間が増えていって自分を支えてくれた。独りになって、改めて仲間の存在が大きかったことに気付いた。でも、仕方ないことである。今の現状を受け入れて前に進むしかない。そう思いながら、春江は目の前にある木の扉を見つめていた。
この先に何があるのだろうか。未知への恐怖は計り知れないものだった。ここが地獄だったら、扉を開いた瞬間からだろうということを直感していた。
春江は、スカートについた埃を払うと、ゆっくりと扉の前まで歩いていった。ごくりと生唾を飲むと、緊張した面持ちでドアノブに手をかけようとした。
「よし! 行くぞ!」
自分に言い聞かせるように声を出して、ドアを開いた。
ドアを開くと、先程の静寂とはうって変わり、うねり声や叫び声が響いていた。ドアの奥もまた部屋であり、そこには百人はいるだろうか、隙間なく人が集まっていた。
そこに集まっている者は、春江と同じ日本人だけではなく、欧米系の顔立ちをしている者もいた。服装から、春江が生きた昭和に相当する時代を生きていただろう者が多かったが、中には、中世貴族のような格好をしている者も数名いた。
時代や国籍を問わず集まった者達に共通していることは、皆罪を犯して地獄に送られたということである。その証拠に、皆目つきがおかしく、精神状態も通常のものとは逸脱していた。おとなしく立っている者は少数で、大概の者は、側にいる者を意味なく殴ったり、獣のように吠えたりしていた。中には無表情でただ立っているだけの者もいた。
地獄に堕ちたことを悲観しているのだろうか。悲観の仕方が人それぞれ違うだけなのだろうか。これから降りかかるであろう想像を絶する苦難を絶望してるのであろうか。
地獄らしい責め苦をまだ味わっていないのに、既に阿鼻叫喚の様相を呈していた。
この部屋は、体育館のような広さで、天井の高さも同様に高かった。前方には大きな扉が一つあるが、他の三方は隙間なくドアが敷き詰められていた。春江もまた、そのうちの一つからここに来たのである。春江がこの部屋に入ってからも、それらのドアから次々を人が出てきた。
辺りは、この部屋に集まった者達の悲痛な叫びとドアが開閉する音が不気味に響いていた。
春江は、この異様な光景に少なからず動揺しつつ、これから何が始まるのかと不安に駆られた。
暫くすると、ドアから人が出てこなくなった。どうやら、ここに集まる者達が揃ったようだ。全部のドアが閉じた後、そのドア達が音もなく消えていった。
それと同時に、ドアのあった場所の上空5メートル程の場所に光り輝く六芒星が現れた。ドアの数と同じ数の六芒星が一気に現れた。まるで、天井に光で描かれたような六芒星が百あまり出現したことになり、数多くある六芒星は圧巻だった。
これらの六芒星の周囲が光の円で囲まれ、同時に回転を始めた。しまいには音を立て、
――――キュイーーン
という独特の音が辺りに響いた。次に、回転と同時にその回転している部分の空間が切り取られた形になり、円盤がゆっくりと降りてきた。切り取られた空間には異空間のような歪んだ空気が漂っていた。
円盤はなおも降りてくる。その円盤の上には、軍服調の服を着た、冷たい瞳をした者達が乗っていた。
その軍服のような服から透き通って突き抜ける形で、透明な板が生えていた。この板は飛行機の翼のようでもあるが、その板に描かれている模様はデフォルメされている翼のようでもある。この板は固定されているのではなく、時折折れ曲がったり、翼のように羽ばたいたりしている。
天使である。
その天使の手には鞭や警棒を持っており、いかにも罪人を痛みつけると言わんばかりの格好をしていた。
天使達は、円盤が地面に降りると、ゆっくり地面に足をつき、腕組みをして、この部屋の壁に陣取った。壁一面に天使がいる。百名余りいる天使は、何も語らずただ立っていた。
数人の罪人達が天使に刃向かっていったが、天使の体に触ることができないようで、天使を覆う壁みたいな結界に阻まれた。その後、その天使は、
「公務執行の妨害は重罪なり」
と発すると、刃向かった罪人は、天使の警棒で体を突き刺され、おびただしい血を流しながら、のたうち回った。この罪人は、腹を刺されたため、内臓が飛び出てきた。特に小腸の飛び出し方は尋常ではなく、腹の中に収めようとしても何度も飛び出してしまう。
この生々しい光景を見た、他の罪人達は、自分の運命をその罪人に重ね、容赦なく自分らを痛めつけようとする天使に恐れおののいた。
その結果、皆、一斉に天使がいる壁から後ずさりし、部屋の中央に集まった。
程なくして、部屋前方にある扉上空から、一際大きい六芒星が現れた。
――――キュイーーン
他の天使と同じ音を響かせながら天使が降りてきたが、少しだけ他の天使と違っていた。演台のような台と一緒に降りてきたのである。また、この天使は、壁にいる天使と違った風格があった。目つきが鋭く、罪人からすると、いつ殺されてもおかしくないと思ってしまう程の殺気を放っていた。
そんな目とは裏腹に、満面の笑みを浮かべながら、罪人達に語りかけた。
「罪人の諸君。地獄へようこそ」
いよいよ地獄へ突入する。春江はそう実感した。
「私の名は、ダニー・クルトン。三等検察官である」
そう自分の名を明かすと、ダニーの右側に大きな赤い火柱が立った。その火柱には記号のような文字のようなものが刻まれていた。この文字は検察官という役職名とダニーの名前のようである。
この火柱は名刺代わりであり、身分を偽りなく示すために用いられるもので、天使が出向いて職務を全うする際には必ず提示されるものである。
自己紹介後、ダニーは続けて話し始めた。
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ