天上万華鏡 ~地獄編~
怒号が飛び交う状態から一転して物音一つ立たない静寂に。それでも、極限の緊張感が辺りを包み込んだ。皆、ハルとテンの一挙一動にありったけの集中力を注ぎ込んで注目している。
それを見たハルは、辺りを見渡してにっこりすると、ゆっくりお辞儀をした。テンも同様にお辞儀をした。天使が自分達にお辞儀をする。考えられないものを目の当たりにした罪人達にどよめきが起こった。
「テンちゃん……お願い」
そう言いながら、目配せすると、テンも頷き返し、ゆっくりとバイオリンを構えた。
「マユちゃん……どうすればいいのか分からないけど、私にできることはこれしかない。だから頑張るよ」
「え? 何をするの?」
マユにとって当然の疑問。それに対してハルは何も答えず、ただにっこりと微笑んだ。丁度その時、テンはバイオリンを弾き始めた。
絶叫が飛び交う荒んだ場所。そこにバイオリンのきれいな音色が響き渡る。想定外の現象に皆驚きつつも、緊張でこわばった表情が、ほのかに緩んだ。
そして次の瞬間、ハルの歌声が響き渡る。
「私は何故生まれたの?
いつも私に問いかけた。
私が息を吹きかければ
空舞う鳥が地に落ちた
私が大地を踏みしめれば
地に生える草木は枯れ果てた。
私は何故生まれたの?
いつも私に問いかけた。
私が朝目覚めれば、
母が私を見て嘆いてる。
私が夜寝ようとすると、
父が私の死を願ってる。
でも私はいつも思う。
神様は私を作ったの。
意味があるから作ったの。
きっと何かの役に立てる。
じゃなかったら、
神様は私をつくらない。
だから私は生き続ける。
石を投げられたって
蹴られたって
死んじまえと言われたって
何が何でも生きてみせる
私が世界の役に立つまで
私が生きた意味を知るまで
それが私の誓いなの
私の生の誓いなの」
ハルの思いが、ハルの願いが歌に乗って罪人達の魂に染み渡っていった。皆ぎりぎりのところで自らの存在を保っている。ハルだって同じである。自らを蔑み、くだらない存在だと思っている。でも本当はそれで終わりたくないのだ。生きたいのだ。魂の奥底に刻まれた叫びをハルは鮮烈に歌い上げた。
目の前にある惨劇で、魂の奥底にある本心を覆い隠されていた。生きたいという切なる願いをハルは呼び起こしたのだ。罪人達は、数少ない記憶をたどりながら、自らの生きる意味を今一度考え始めた。でも誰一人その答えを見付けられる者はいなかった。でも皆同じ思いに至った。「生きたい」と。
だからこそ、枯れていたはずのものが止めどもなく流れ始めた。それは「涙」である。本人達も意外な動きに戸惑っていた。そして更にハルの歌は続く。
「生きていて、
何もいいことないって思ってる?
私もそう思ったことあるわ
私もその答えは分からない
でも、生きていたら友にふれることができるのよ
友と語ることができるのよ
それだけで幸せって思わない?
友はいらないと言う人がいる
人は信用できないと言う人がいる
でも本当はほしいんでしょ?
鎧を脱ごうよ
そして開こうよ
そう思える友を探そうよ
きっと見つかるから
それが生きる目的になっても素敵じゃない?
私はそう信じてる」
マユはハルの歌を、魂の叫びを呆然と見つめながら聴いていた。じわっとわき出る涙を拭えないほどに聴き入っていた。三百年この地獄に留まっていながら未だかつて経験したことのない現象が目の前で繰り広げられている。
絶叫がやみ、笑顔がこぼれる。涙で床を濡らす。そんなこと三百年の中で一度だってなかったことである。
「ハル! 最高!」
マユは、ハルの歌が一段落ついたところで、賛辞を浴びせながら拍手をした。他の罪人も頷きながら拍手をした。
「いいぞ!」
「もっと歌ってくれ!」
「どうして今まで隠してたんだ! よかったぞ!」
皆興奮しながらハルに言葉をかける。言葉は荒いが心のこもった言葉が次々と投げられた。
ハルは、満足そうにテンを見つめると、テンはそれに答えるように微笑みで返す。
「テンちゃん……ありがとう」
テンは、再度微笑んだ後、バイオリンを構えた。ハルが歌おうとしていないのに、テンが自発的に演奏しようとしている様子を見て、ハルは不思議に思った。しかし、辺りを見渡して納得した。皆が春江の歌を待っている様子が目に飛び込んだからである。
ハルはテンに促されるように、歌い始めた。直前まで自らを呪い、その呪縛から解き放たれるために歌った。今も自らの存在が盤石になったわけではない。ほんの少しの傷で全てが壊れる危険性をはらんでいた。それでもハルは人のために歌った。人を救うために歌った。そして、人に生きる希望を与えるために歌った。
人のことを気遣う余裕なんてない。絶望に支配されているからこそ、そう思うのが当たり前であった。それ故に、ハルの行動は理解に苦しむ。これがこの場にいる多くの罪人の見解だった。でも、ハルの思いが歌声に乗って罪人達の心に響き渡った。自分が傷ついてもいい。永遠にここに留まる事になってもかまわない。兎に角皆を救いたいという滅私の心。これが論理性を超えた説得力となって轟いたのである。
ハルのひたむきな顔。優しさ溢れる歌声。繊細なタッチで彩りを添えるテンのバイオリン。全てが罪人達の心を癒した。
一通り歌った後、ハルは静かにお辞儀をした。
「皆さん……もう消えるなんて言わないですよね?」
すがるような瞳で皆を見つめるハル。同時に役目を終えたテンは例の如く六芒星に乗って帰っていった。
「それは……」
確かにハルの歌声には癒された。それ故、消滅を一瞬思いとどまることになった。しかし、これから先も圧縮の激痛に耐え続けることを想像すると話は変わってくる。ハルの思いも寄らぬ言葉に、皆立ち尽くすしかなかった。重苦しい空気に包まれた。そして一人がゆっくりと口を開いた。
「あんたはここに来て日が浅いと思うが、俺らはずっとここに閉じ込められているんだよ。いつまでたっても出ることができない……もう我慢できないんだ」
「そうなんだよ……残ったところで一体何になる? 何が楽しくて存在すればいいのだ……お前がすげー歌を歌ってくれても、痛いのは我慢でねーんだよ……」
「でも……諦めなければいつかは……」
「それはねーよ! だってこいつは三百年もいるんだぞ! 永遠にでれねーってこいつがいつも言ってるしよ!」
男が指さす先にはマユがいた。マユは、目を伏せて唇をかみしめていた。ハルは、自分を捨ててまで人を救おうとしている。でもマユは自分が助かるために、人を踏み台にしようとした。それが白日の下に晒されると、マユは自分のしたことが無性に恥ずかしく思えてきた。
自分が助かるためには仕方ないこと。この言葉がマユの喉から何度も出そうになった。でも、どうしてもハルの前では打算的な言い訳に思えてきたからである。
「だったら一万年、皆さんのために歌い続けます。私の歌が、生きる目的になるまで歌い続けましょう」
この言葉に辺りは静まりかえった。明らかに偽りではないその言葉に息を呑んだのである。
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ