天上万華鏡 ~地獄編~
「貴様は軍人の誇りも忘れたのか! 自分の主張を叶えるために女に手をかけるまで落ちたのか!」
難波は、庄次郎の気迫に圧されて、後ずさりした。
「俺は殺していない……城島夫人自らが……」
「黙れ! 春江は死んでいるじゃないか!」
庄次郎は、春江が自ら首を吊ったことぐらいわかっていた。生田達が春江を手にかけるためにわざわざ首つりをさせなくても、他にいくらでも方法がある。しかし、生田達が手をかけたと思わなければ、耐えられない。自らが導き出した結論さえも曲げなければ保っていけないほど追いつめられていた。
「う……」
庄次郎から太ももを撃たれ、崩れ落ちる難波。庄次郎は急いで駆け寄り、崩れ落ちる前の顔面を蹴り上げた。そして馬乗りになって何度も何度も殴り続けた。庄次郎の心中には「殺す」の二文字しか浮かばなかった。
しかし、この怒りも、春江を失った悲しみを紛らわせるもの。すぐさま、怒りが悲しみの涙に変わり、庄次郎に襲い掛かった。とめどもなく流れる涙。庄次郎は、その涙をぬぐうことも忘れ、再度春江の元へ歩み寄り、そっと抱いた。
「春江! どうして……自分の存在が俺の邪魔になるとか思ったのか? そんなはずないじゃないか。私は何があっても死なない。何があっても屈しないと常々言っていたじゃないか! こんな事で挫ける私ではなかったのだ!」
涙が止まらない。腹から湧き出る感情も太く強く、ますます勢いを増す。庄次郎は、気がふれるほどの激痛に襲われ、言葉を発することができなくなった。
そして、
「ああああああああああああああ!!!!!」
と叫びながら気を失った。
庄次郎はそれ以後のことはあまり覚えていなかった。ただ鮮烈に残った記憶といえば、事件発生1週間後。事件の捜査が終わり、その首尾を聞かされた時である。その時、庄次郎は、上官の執務室に呼ばれた。
「城島。事件の真相がわかった」
「……」
庄次郎は何も答えなかった。目には生気がなく、ただその場に立っているだけだった。
「犯人は、生田と難波。にらんだ通りだった。貴様の妻がなくなったのは、やはり自殺だったようだ」
「……どうして……」
「生田と難波は皇道派。とらえられた同志の開放を目論んで貴様の妻を誘拐したらしい。どうせ女は政治に疎い。だからうまく使えると思ったようだ。でも貴様の妻は全部お見通しだった。つまり、皇道派が自分を利用しようとしたことを即座に見抜いたようだ。賢い妻だな」
「私には勿体ないほどの妻でした……でもどうして自殺なんか……」
「貴様の妻は、私は誓った。庄次郎様のためには命をかける。庄次郎様が私のために何がなんでも生きながらえるのなら、私は庄次郎様のために命をかける。あなた方の思う通りにはならない……そう言ったそうだ」
「それで……春江は……」
やはり自分のために死んだんだ。それをまざまざと見せつけられた。春江の死は自分のせい。怒りの矛先を向けるのは自分だっただと知った庄次郎は立つことができなかった。
よろめき膝をつく庄次郎。その心中は真っ白だった。ショートしたとっていい。頭に浮かぶ言葉が多すぎて、そして流れる感情が強すぎて、むしろ全く動きを止めていた。
薄れゆく意識の中で、1つの考えにまとまっていった。その考えを春江に伝えなければ……その一心で、寸前のところで意識をとどめた。そして、すぐに向かったのは春江の墓だった。
庄次郎は、無言で花を手向けると、しばらく考え込み、意を決したように口を開いた。
「春江……君は、私のためなら、命を懸けるといったよね……君はその約束を守ったんだよな? それが私と結婚する覚悟だって。私はそれほどまでに愛されていたんだな」
その刹那、庄次郎の頬を黄色に染まった銀杏の葉が触れた。庄次郎は、春江に語り掛けている言葉を一時止め、銀杏の葉を手に取った。
奇しくも、春江が庄次郎のために命を絶とうと決意した瞬間に見つめたのは、深紅の葉。庄次郎の決意を後押しするように、銀杏の葉が庄次郎に降り注いだ。
「春江……私は君を失って心が死んでしまった。何のために生きていけばよいのか分からなくなった。私は、君の存在に支えられて生きていたようだ。本当に情けない……辛い……でも、この辛さは、私が君をそれだけ愛しているという印。だからそれでいい……今すぐにでも死んで君の元へ旅立ちたい。でも、君が私に言ったよね。何が何でも生きてくださいって。君が私に覚悟を示したように、私も君に示したい」
庄次郎はゆっくりと深呼吸した。そして、涙に濡れたその瞳に光が灯った。
「私は、死ぬまで君を失った苦しみを背負うことだろう。それでいい。地獄の業火に焼かれるほどの苦しみを味わうだろう。それでいい。それでも私は、生きてやる!」
それからの庄次郎は、太平洋戦争において鬼神の如く戦果をあげてきた。鬼の将軍を呼ばれるほど、厳しいことを部下に課しながらも、決して命を失わないような戦略を立てた。庄次郎が鬼と呼ばれているのも、命を失わずに済む技術を修直させるためだった。生きるとは厳しいもの。難しいもの。達成するためには相応の覚悟が必要だと。
春江の死を背負いながら、激痛の中でそれでも生きている庄次郎だからこそ、疑いようのない説得力でもって、部下に届いた。
そして寿命を終えた。
メモリーディスクの再生が終わり、庄次郎としての意識から、ジャッジの意識にシフトした。それでもジャッジはぴくりとも動くことができなかった。
呆然自失。
体を全く動かせない代わりに、その瞳からは止めどもない涙が流れていた。
――――春江は私を裏切ったわけではなかった……むしろ私への誓いを果たしたのだ。
「ジャッジ様?」
トロンは、ジャッジの様子が心配になった。少なからずショックを受けるだろうとは思いながらも、ジャッジの反応は想像以上だった。
ジャッジは、トロンの言葉を聞きながらもにわかには反応できなかった。
「ジャッジ様?」
二度目のトロンの呼びかけにやっとのことで振り返り、トロンの顔を見つめた。
「お分かりになったでしょ? ジャッジ様の記憶は不要なものでしたか? 忌まわしい記憶でしたか? そうじゃないはずです。とても大事な記憶だったはずです」
「……」
「ジャッジ様は、春江様のことをよくご存じのはずです。ジャッジ様に誓いを立てて自殺したばかりに、地獄に堕ちたあの方です」
「……」
「そうです。ハルです。ハルは、自らの運命を呪っていません。むしろ、愛する人のためにとった行動を誇りにしています」
「……」
「そのハルを罪人として責め苦を与える役割に就かせたことに悪意を感じませんか?」
「……」
「そして、ジャッジ様の大切な記憶を抹消したことに悪意を感じませんか?」
「……」
「その黒幕をジャッジ様はよくご存じのはずです」
「……」
「ジャッジ様…私たちと一緒に…」
沈黙を保っていたジャッジ。しかしトロンの言葉を遮った。
「やめてくれ!」
「……え?」
「今の私に何をしろというのだ。今更春江に何ができるというのだ。私のために罪を背負った春江にあんな仕打ちをした私が、今更何ができるというのだ!!」
「だ、だから、今からでも……」
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ