天上万華鏡 ~地獄編~
呆けている庄次郎に対して、あきれ顔でつぶやく陸軍大臣。その声で我に返った庄次郎は、恥ずかしさのあまり、顔を伏せるしかなかった。
庄次郎はその後のことはあまり覚えていなかった。首相や大臣までも参列する場に自分は似つかわしくない。岡田首相を守ったときの鬼神の如く目の座った庄次郎ではない。普段は、素朴で純情な青年だった。
式典が終わり、安堵の表情を浮かべながら帰途に就く庄次郎は、春江の顔を浮かべながら、今日はどんな曲を弾いてもらおうか考えていた。それが庄次郎にとって一番の褒美だった。
電車を乗り継ぎ、帰途に着く。何もかもが同じ風景だった。しかし、自宅に着くと様相が一変した。
夜なのに、電気が灯ってなかったのである。
この変化を見た庄次郎はただならぬ胸騒ぎを覚えた。庄次郎はこれまでの軍人生活から、些細な変化が大きな事件に直結することを知っていたからである。
「春江!」
そう叫びながら、玄関の戸を開いた。するとそこには、茶碗やちゃぶ台などが散乱し、夕食の準備をしていたであろう短冊切りにされた人参がまな板の上で転がっていた。
春江の性格なら、こんな中途半端のまま外出するはずがない。いくら緊急であっても、綺麗にまとめておくはずだ。ましてや戸締りをしないまま。
庄次郎はこの状況を理解するためにあらゆることを想定し、その可能性を潰していった。しかし、その思考はあるものを発見してから無意味なものになった。
畳の上に無造作に封筒が置かれていたのである。
庄次郎は、靴を脱ぐのを忘れるほど急ぎ早に封筒のところに駆け寄ると、即座に手に取った。
封筒の表には「城島少佐殿」と書かれており、封筒の裏には何も書かれていなかった。
封筒を眺めたところで何も分からない。しかし、春江以外の誰かがここに来たことは明白。それが春江の身に降りかかった何かと関係があるだろう。庄次郎は、手を振るわながらも封筒の封を切り、中にある手紙を取り出した。
――――政府の犬、城島少佐殿。昭和維新を成し遂げようとする我々を邪魔することは、陛下の御心に背くものである。大儀を忘れて犬と化した貴様に天誅を下す。
「自らの主義出張に女を使うとは何事か! 私に直接ぶつかればいいじゃないか!」
庄次郎は、思わず叫んでしまった。自分のために春江がひどい目にあう。そんなこと想像したこともなかった。
男は常に正々堂々とすべし。庄次郎はそう教えられてきた。軍人として誇りをもち卑怯なことはしたらいけないという武士道精神だった。当然、同志もそうだった。そのため、いくら政治的な思惑が絡み合おうとも、巻き込まれるのは自分だけだ。そう思っていた。まさか政治に関係のない女を巻き込むなんて。そんな卑怯なことがまかり通るはずがない。
庄次郎は手紙を握りしめ、ある一点を憤怒の形相で見つめた。その一点に何かがあるわけではない。最早庄次郎には何も見えなかった。あるのは、春江に対してひどい目にあわせた犯人対する激しい憎悪、そして春江を取り戻すにはどうすればよいのか考えを巡らせた。
まずは自分1人で捜索するには限界がある。問題が政治絡みだったら軍と連携するのが必定。庄次郎は、まずこのことを軍に報告して捜索を開始した。
軍の捜査関係者と庄次郎は、手紙の「昭和維新」「政府の犬」という言葉に着目した。そして庄次郎が少佐に昇格したことを知っている人物。そこから、二・二六事件において、岡田首相を警護の際に遭遇した「生田次郎」「難波大介」の両名に犯人の目星をつけた。
それは、両名が皇道派の残党であることと、日頃から「政府の犬」という言葉を好んで使っていたこと。庄次郎と同期であることなどがその理由として挙げられた。
そして両名のアジトはすでに特定されていた。それは両名を泳がせておいて、その動きを監視し、組織を一網打尽にしたいという狙いがあった。しかし、この事件が発生したことにより、作戦は裏目に出たことが露見された。
陸軍の沽券にかけてこの事件を納めなければならない。そういう思いから、庄次郎を始めとした捜査員が両名のアジトに向かった。
無事でいてほしい。そう思いながら、アジトである古びた洋館にたどり着いた。
真っ先に庄次郎が、
「生田次郎! 難波大介! 春江を返してもらおう……か?」
と言いながら入り口のドアを蹴破って踏み込むと、庄次郎は言葉を失った。
目の前にあるのは、生田と難波の二人。そして、首を吊ってぶらりと垂れ下がった春江の姿。最早生気がなく、ただの塊と化していた。庄次郎はその瞬間。世界がグルグル回って目の前にある風景が歪んでいった。そして周りの音が一切消えた。聞こえるのは自分の荒い呼吸音のみ。
「貴様ぁぁ!」
庄次郎はクラクラしているのを堪えつつ、絶叫しながら二人に突進していった。二人とも庄次郎の急な登場に腰が引けていたため、何も対応できなかった。
庄次郎は、春江のそばにいる難波に照準を合わせ、思いっきり殴った後、すぐさま春江の元へ駆け寄った。
「春江!」
もしかしたら、まだ息があるかもしれない。気を失っているだけで、まだ大丈夫かもしれない。庄次郎はそう思い込むことで自分を保とうとした。しかし冷静に考えれば、首を吊ったら間違いなく死ぬ。庄次郎も長い軍人生活で分かっていた。でもわずかな希望があると思わなければ自分を保つことができなかった。
庄次郎は、急いて春江にかかっているロープを解き、頸動脈に指を当て、脈を診た。認めたくないことだが、ある意味分かっていた答えだった。
「脈がない……」
春江は死んでいた。
肌を撫でると、死後硬直が始まり皮膚が硬くなり始めていた。この異質感も春江が死んだのだと実感するものとなった。
庄次郎は、目の前にある現実をどう受け止めればよいのか全く分からなかった。夢であってほしい。そうだこれは夢だ。そう思うと同時に、目の前には紛れもなく息絶えた春江の姿があった。
庄次郎は呆然としながら、目の前にいる春江をゆっくりと抱きしめた。
目の前にやっと会えた最愛の人。でも息絶えている。春江の肌を撫でれば撫でるほどその事実が無情にも庄次郎に突き付けられた。その瞬間、堰を切ったかのように庄次郎の目から涙が流れていった。
そばに生田達がいようともお構いなしに、声を立てながら泣き続けた。時には嗚咽をあげながら。止まらない感情はいつになっても流れ続けた。
目の前の様子に呆然と立ち尽くしていた生田達は、我に返り、庄次郎に殴りかかった。
庄次郎は、春江を前にして、嗚咽をもらしていても、その変化を見逃さなかった。春江をそっと床に置くと、涙を二人に対する憎悪へと姿を変え、向かってきた生田の足下をを蹴り上げ、転倒させた。その後すかさず腹を蹴り続けた。
庄次郎の心に宿るのは怒りのみ。黒く燃え盛る憎悪のみ。庄次郎は悪魔の影を背負いながら、憤怒の形相で蹴り続けた。そして腹の底から湧き出す感情に言葉を乗せた。
「貴様ら許さん! 絶対に許すものか!」
その刹那、庄次郎の背後から、難波が殴りかかろうとした。すると庄次郎は、すかさず懐から拳銃を取り出し突き付けた。それを目の当たりにした難波は動きを止めた。
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ