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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
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天上万華鏡 ~地獄編~

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 庄次郎は、春江の気持ちが十分すぎる程分かっていた。自分がもしかしたら命を落とすかもしれない。その不安感で圧し潰れそうだったのだろう。でも心配かけまいと健気に耐えている。春江の愛に痺れながらもそんな思いをさせたことに心を痛めた。
「春江……私は何があっても生きて君の元へ帰ってくる。どんな手を使っても春江の元へ……約束したからな。……心配かけたな」
「いいえ。信じていました。庄次郎様が謝る事なんてありませんわ。だけど……暫くこのままにしていただけないでしょうか?」
「ああ」
 そう言いながら微笑むと、庄次郎はそっと春江を抱きしめた。春江は庄次郎に微笑み返すと、ゆっくりと庄次郎の胸に顔を埋めた。
 庄次郎は春江の温もりをその手に確かめると、更に求めるようにゆっくりと頭を撫でた。頭の形を確かめるように、そしてその温もりを漏れなくその手のひらに受け止めようとしたいた矢先、庄次郎は異変に気付いた。
 春江の頭が小刻みに震えていたのである。
 春江は庄次郎に気付かれないように、音を立てずに泣いていたのである。庄次郎に余計な気遣いをさせないために必死で耐えていた。その気持ちを察した庄次郎は、春江が泣いていることに気付きながらも、何も声をかけなかった。
――――私はなんて幸せ者なのだ。
 春江を感じながら庄次郎はそう心の中で呟いた。
 お互いの愛を無言でぶつけ合う二人の背には、しんしんと降り積もる大粒の牡丹雪。眩しすぎる愛の光と対照的に静かに降り注いでいた。
「そうだ……春江」
 急な言葉に春江は庄次郎を見上げた。
「春江がいつも弾いていたあの曲……シャコンヌはピアノの伴奏があるんだったよな」
 シャコンヌとはヴィターリが作曲したバイオリン曲で、悲恋な旋律の中にも凛とした芯のある名曲である。春江はこの曲調に憧れ、好んで弾いていた。
「え? シャコンヌを弾いて欲しいのですか?」
「違うんだ」
 そう言いながら、庄次郎はそばにあるピアノの椅子に座り、ピアノの蓋を開けた。
「え?」
 庄次郎は、ピアノの鍵盤に指をつけると、春江に振り返り、微笑みかけた。春江はその意図を汲み取り、喜々としてバイオリンを準備した。
 庄次郎が淡々としたリズムから入る前奏を弾き始めると、次の瞬間、春江は勢いよく弓を動かした。
 庄次郎の伴奏はつたないものだった。時折リズムが狂い、止まりそうになりながら、かろうじて弾き続けるものだった。
 しかし春江は見事に合わせていった。庄次郎の思いをピアノの音色で受け、春江もまたそれにバイオリンの音色で応えた。
 庄次郎は、この曲をよく聴いていた。いつもは弱々しい春江が、この曲を弾くときは凛として輝きを増す。違った一面を垣間見る度に胸を熱くしていた。
 しかし自分も演奏に加わることで、自分の演奏と絡み合う春江の音色を受け、まるで語り合いながら互いが溶け合っているような絆を鮮烈に感じた。
 庄次郎は演奏を間違えそうになる緊張感よりも、春江との絆を全身に浴び、歓喜に震えた。そしてその喜びを共有しようと、春江をチラリと見た。春江もまた同じ気持ちで庄次郎を見つめていた。思いは同じ。そう感じた両者は更に幸せに包まれながら微笑み合った。
 それは演奏が終わるまで続いた。名残惜しそうに最後の弓を力強く引くと、春江はバイオリンの構えを解いた。
「庄次郎様……ピアノを?」
「シャコンヌはピアノ伴奏があると聞いたときから、春江が伴奏なしで弾いているのが心苦しくて。伴奏があればきっと春江も喜ぶだろう。そう思っていた。だから私が弾くことができたら……と」
「私のために練習を?」
 その瞳は涙で溢れていた。
「今日の春江は涙もろいな」
 庄次郎はそっと春江の涙を拭った。
「だってうれしいことばかりなんですもの。こんなにうれし涙を流したことはありませんわ」
「そうか。私もうれしいよ。こんなに喜んでくれるとは……」
「私のためにどれだけ努力されたのか……それを考えたら喜ばない妻はいないと思います……私は……私は……幸せ者です」
「それは私の台詞だ。先に言われてしまったな」
 庄次郎は春江のうれし涙。そして笑顔を眺めながら至福に包まれていった。
 春江と結婚してよかった。これ以上の幸せはない。自分をそこまで愛してくれる春江に対して何ができるだろう。そう思わずにはいられなかった。それが春江の愛に報いること。そしてそれが自分の幸せでもあった。
「つたないピアノで申し訳ないが、それでよければいつでも弾きたい。春江と一緒に……」
「つたないなんて……庄次郎様の音色は優しさに満ちあふれていますわ。私は大好きです」
 春江の言葉を聞きながら、任務だとはいえ、自分の身を危険にさらしたことに胸を痛めた。春江が自分に望むこと。それは、何が何でも生きる事。危険に晒せば晒すほど春江を傷つけてしまう。春江の愛に報いるためには、自分の安否を心配させるような事態を避けることだった。
――――あなたのために何が何でも生き残る。
 という庄次郎の誓い。その困難さを胸に刻むことになった後、しばらくして、皮肉にも、
――――あなたのために命を捧げる。
 という春江の誓いが試されることになる。
 半年後。庄次郎は岡田首相を見事に守った事が認められ、少佐に昇格した。その式典が今日行われようとしていた。
「春江、いよいよ今日から少佐だ。これからもっと日本のために奮進することができる」
「庄次郎様、私もうれしいです。庄次郎様、緊張されているんですか? 襟が曲がってますよ?」
 春江はそう言いながら、庄次郎の襟を正した。その顔は、愛する夫の晴れ舞台を見送ることができる嬉しさで溢れていた。
「そうだな……柄にもなく緊張しているのかもしれない」
 庄次郎は、すっと深呼吸すると、にっこりと春江を見つめた。自分の頑張りを喜んでくれる人がいる。そのことが庄次郎にとってどれほど大事なことなのか。春江の笑顔を眺める庄次郎は胸を熱くした。
「それでは行ってくる」
 庄次郎は、春江を一瞥すると、玄関を出て行った。春江は、庄次郎に一礼して見送った。いつもの光景だった。これからもずっと続くであろう。しかしそれが最後になろうとは、このとき、誰も想像できなかった。
 昇格式典は、陸軍本部で執り行われた。そこには、庄次郎の働きにより命拾いした岡田首相も参加する予定だったが、二・二六事件の責任を取って内閣総辞職。後任の廣田首相が参列した。
「城島庄次郎前へ」
「はっ!」
 神妙な面持ちで陸軍大臣の前へ歩を進める庄次郎。周りはピリッとした緊張で包まれた。若くして少佐まで上り詰めた庄次郎に対し、称賛や羨望、嫉妬など様々な感情が向けられた。それが無言の圧力となって会場を覆いつくした。
「城島庄次郎。貴殿を陸軍少佐に任命する。これからも大日本帝国軍のために尽力すべし」
「は!」
 庄次郎は素早く敬礼をすると、勲章を手にとりしみじみと見つめた。偉くなりたかったわけではない。ただ、正しいことのために頑張ってきただけだ。しかし、それが実を結ぶといいようのなり達成感をその身を包んだ。
「城島君……」