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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
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天上万華鏡 ~地獄編~

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「城島……ここで何をしている。我々と一緒に昭和維新を……」
 そう言いながら歩み寄った難波だったが、庄次郎に拳銃をつきつけられ、後ずさりをした。
「貴様!」
 生田も銃を抜き、庄次郎につきつける。
「どういうことだ!」
「私は閣下をお守りする。邪魔だてするのならここで撃つ」
 そう言う庄次郎だったが、生田と難波は庄次郎と同期入隊した同志である。思想の違いから別の道を歩むことになったが、仲間であることには変わりなかった。岡田首相を守るために何事にも躊躇するつもりはなかったが、できることなら二人を殺したくなかった。
「政府の犬が! 陛下をないがしろにする畜生をかばい立てするのか!」
「貴様らがしていることで陛下はお喜びになるのか!!」
「必ずお喜びになる。陛下は政府の横暴な振る舞いにお怒りになっておられる。我々がやろうとしていることは、陛下の本意なのだ!」
「問答無用! 私は何が何でも閣下をお守りする!」
――――バーーーン!
 庄次郎は難波に発砲した。しかし、頬をかすめ、銃弾は後ろに逸れた。難波はかすり傷で済んだが、二人の戦意を喪失させるには十分だった。庄次郎の鬼気迫る勢いに圧されて二人はその場にへたり込むしかなかった。
「貴様が何と言おうと、岡田はこの場で殺される。貴様も同様にだ。小隊でこの場を包囲しているのだ。逃げ切れるはずもない。」
「そうだ。貴様はここで死ぬのだ。畜生の哀れな末路を貴様も辿るのだ!」
 二人は腰を抜かしながらも捨て台詞を吐き、その場を後にした。
「……陛下を政争の具にするなんて許せない。それで閣下を亡き者にしようとするなんて愚の骨頂」
 そう呟いた庄次郎の前に、次々と岡田首相を襲う軍人達が向かっていった。その軍人達は、庄次郎の姿を見付けるや否や、即座に銃を抜き、発砲してきた。
「ここで挫けたら日本は地に墜ちる。何が何でも守り通さなければならないのだ」
 このクーデターで政府が転覆することにでもなったら取り返しのつかないことになる。ここは命を賭してまでも国のために尽くさなければならない。庄次郎は当たり前にそう結論づけた。しかし、同時に春江の顔も浮かんだ。
――――庄次郎様……お願いがあります。何が何でも生き続けて下さい。決して軽はずみなことで命を落とさないで下さい。格好悪くたっていいですから……絶対に死なないって約束していただけますか?
「私は生きなければならない……」
 しかし、このまま岡田首相を見捨てて自分だけ逃げるわけにはいかない。そう考えた庄次郎は目の前にいる軍人達を素早く射殺すると、目の前に誰もいないことを確認した後、岡田首相が隠れている部屋に入っていった。岡田首相は押し入れに入っている。この押し入れを守らなければならない。と同時に、自分の身も守る。策を弄する暇はない。すぐそこまで追っ手は迫ってきている。
 そこで庄次郎の目に留まったのは、床板の違和感だった。一部の床板だけ色が微妙に違う。まさかと思い、床に手をかけると、その部分がめくれ上がった。
 その奥は、人が入れるぐらいのスペースがある。どうやら緊急時の隠れ部屋のようだった。まさに今が緊急時。岡田首相をここに招き入れればほぼ間違いなくこの窮地を切り抜けられる。そう思った庄次郎は、
「閣下、城島でございます。隠れ部屋を発見致しました。そこへ避難すれば難を逃れるかと」
 押し入れのふすま越しに語りかけると、中の岡田首相は素早く出てきて、
「城島、その隠し部屋はどこだ」
 ささやいた。
 追っ手が来る前に事を終えないといけない。一刻を争う事態だった。
「閣下こちらです」
 庄次郎は、先に岡田首相を床下の隠し部屋に通すと、追っ手に見られていないか左右を確認した後に自らもその中に入り、床板を元に戻した。
 その直後だった。
「岡田はどこに行った!」
「城島がそばにいたそうだ。奴は隠れるなど小賢しいことはせずに岡田を援護するはず。そういう奴だ。だからいくら探してもいないということは既に逃亡している可能性もある」
 数名の追っ手が庄次郎達がいる部屋へ踏み込んだ。
「念のため、隅々まで調べるのだ。これで逃したら同士に顔向けできないぞ!」
 そう言葉を残して捜索が始まった。さっきまで潜伏していた押し入れも念入りに。まさに間一髪だった。
 その時だった。部屋を捜索していた兵とは別の者が慌てた様子で駆け込んできた。
「岡田を討ったぞ。目的は果たされたのだ」
「おお!」
 大きな歓声が上がった。当然、捜索は続けられることなく、隠れ部屋が見付かる心配はなくなった。しかし、隠れている二人は、この顛末に首をかしげていた。岡田首相は隠れ部屋にいる。だとしたら、本当に討たれたのは誰なのだと。
 真相は後に分かることなのだが、総理秘書官が岡田首相に似ており、頭部を大きく打ち砕かれたため、岡田首相だと勘違いしたためだった。
 ホッと胸を撫で下ろした二人の前には、黒電話が一台。静かに佇んでいた。
 この電話により、外部と連絡を取り、脱出することに成功した。岡田首相を、そして日本を守る事が出来た。
 この事件は後に二・二六事件と呼ばれ、軍部が武力により政府転覆を企んだ汚点として歴史に名を刻むことになる。
 自らの使命を全うすることができた充実感以上に庄次郎の胸に湧くのは、春江との約束を守る事が出来たという思いだった。首相官邸が襲撃されたことを知り、春江は心配でたまらないはずだ。早く安心させたい。そんなことを考えながら、急いで帰宅した。
「春江。帰ったぞ」
 玄関で春江を呼ぶ。すると春江は慌ただしく駆け寄ってきた。
「庄次郎様……お勤めご苦労様でした」
「ああ……」
 互いに掛け合った言葉は些細なものだった。でもその短い言葉の内に、言い表すことの出来ない強い想いが込められていた。
 庄次郎は春江の顔を微笑みながら見つめた。命の危機に見舞われて張り詰めていた緊張が解けた瞬間だった。一方、春江は庄次郎に微笑みを返しつつ、その瞳は涙で濡れた。
「春江……約束を……守ってきたぞ」
「はい。ありがとうございます。信じてました」
 春江は、ゆっくりと庄次郎の元へ歩み寄ると、その頭を庄次郎の胸に埋めた。それに応えるように、庄次郎は春江を抱きしめた。
「こうしている夢を毎日見ておりました。でも夢ではこの温もりはありませんでした。庄次郎様は確かにここにいる。確かにいるのですね……」
「私は春江の夢を見なかった。絶対帰ってくると誓っていたから……もしものことは一切考えなかった」
「庄次郎様……」
 余程うれしかったのか、春江は、満面の笑みを浮かべながら庄次郎を見上げた。
「庄次郎様……大佐様からお聞きしました……大変な目に遭われたそうで……」
 庄次郎が襲撃されたことは聞かされていた。一度は無事に帰ることが難しいのではないかと絶望に暮れたこともあった。その緊張感が急に襲ったのである。春江の顔は満面の笑みでありながら、涙が止めどもなく流れていった。
「ごめんなさい……無事に帰還されて喜ばしい時なのに……庄次郎様は閣下を無事にお守りした。庄次郎様がおられなかったら駄目だったかもしれない。そう聞いています。本当にご苦労様です」