天上万華鏡 ~地獄編~
「私怖かったのです。庄次郎様は、ご自分の命を投げ打ってでも、人のため国のために尽くされます。私のために生きて帰ってくると言われても、目の前で苦しんでいるお仲間がいらっしゃったら、身代わりになってでも助けるのではないかと思ったのです。本当に生きて帰ってこられるのかと、不安で不安でたまらなかったのです。庄次郎様を失ったら私は生きていけません! ……申し訳ございません……我が侭だとは分かっています。でもこれだけはお伝えしたかったのです」
自分はこれ程までに愛されているのか。何て自分は幸せ者だと思わずにはいられなかった。庄次郎は、春江の愛を真っ直ぐに受けながら、春江の思いを背負う覚悟を決めた。
「お約束します。絶対に死にません。何があっても生きて春江さんの前に帰ってきます。そのためには鬼にでも、愚者にもなりましょう」
庄次郎の覚悟が春江に届いた時、春江は安堵した表情を浮かべながら、ニッコリと微笑んだ。そして更なる言葉を発した。
「庄次郎様……庄次郎様が私のために、何が何でも生きていかれるのであれば、私も庄次郎様に誓います。私は庄次郎様のためにいつでも命を捧げます。それが妻としての努めでございます」
「それじゃあ……」
「はい。ふつつか者ですが、宜しくお願い申し上げます」
春江は顔を赤らめながらも、はっきりとした口調で言葉を発した。
相手の為に命をかける。それ程愛しているのだ。そして、命がけで愛されている。最愛の人から。この絶対的な愛が絡み合う今、至高の幸福を全身で感じていた。
結婚した二人は、変わらぬ愛を交わしながら幸せに生活した。庄次郎は過酷な公務をこなしながらも、春江と共にする時間を大切にした。中でも春江のバイオリンを聴くのが庄次郎のお気に入りだった。そうやって幸せな時間が過ぎていった。
そんな光景を眺めていたジャッジは、強烈すぎる二人の愛をどう理解すればいいのか分からなかった。そして、どうにか至った結論がこれだった。
――――最も信用していた人から裏切られた。これが私に残された記憶。信用していた人とは春江……つまりハル……私はハルから裏切られたということか? だからカロル様はハルを駆逐する任を与えたというなら合点がいく。更に、その忌まわしき記憶をカロル様が私の為を思い、消していただいたとすれば尚のこと。私がハルに躊躇なく責め苦を与えられる所以も然り。
ジャッジは自らの記憶を眺めながら、最初抱いていた困惑を、そう思うことで落ち着きを取り戻した。しかし記憶映像は、ジャッジの期待を大きく裏切ることになる。
「春江……私は岡田首相に謁見することになった。今、首相は皇道派の将校らから命を狙われているとのこと。私は、なんとしても首相をお守りしなければならない……」
皇道派とは、昭和初期の日本にあった思想で、政財界の癒着、政争を繰り返す政党政治に対して敵愾心をもつがあまり、それらを武力によって討ち、天皇を中心とした国家創造を目指したものである。特に軍部の急進派に多く、当時の政府要人を暗殺しようとする危険思想でもあった。
庄次郎の言う岡田首相も同じ理由から皇道派から狙われる恐れがあり、そのために庄次郎が警護にあたることになったのである。
庄次郎は正義感溢れる性格。それ故、暴力によって自分の思想を実現しようとする皇道派を受け入れるわけにはいかなかった。日本を安定させるためにも、首相にもしものことがあってはいけない。その思いから、危険な任務であろうとも、何が何でも遂行しようと心に誓った。
「庄次郎様のお命も狙われるのでは?」
「……そうなるだろう。でも私は絶対に死なない。春江がいる限り絶対に帰ってくる。だからご飯を作って待っていてくれ。そしてまた私のためにバイオリンを……」
危険な任務だが、命を捨てるわけにはいけない。それが春江に対する愛の証。何よりもそれを優先しなくてはならない。庄次郎は春江の不安げな表情を眺めながら、絶対に死なないと更なる誓いを立てたのであった。
「はい。信じています」
春江は、庄次郎への信頼からか、庄次郎の言葉を聞いてホッと胸を撫で下ろし、いつもの笑顔に戻った。
しかし、事態は庄次郎の誓いの程を試すが如く、最悪の状況に推移していった。
場所は首相官邸。岡田首相の住処である。岡田首相の身を守るために、安全な場所に潜伏しようと説得しているときだった。
「閣下! 今危険な時です。どこかに身を……」
高官らしき人物が岡田首相に詰め寄る。
「馬鹿な事を言うな! 衆議院選であれだけ惨敗しておきながら、私だけ逃げる訳にはいかん!」
「ですが……命がかかっているんですよ……城島! 貴様からも閣下に……」
「私ですか? ……閣下……閣下が生きておられてこそ……」
庄次郎は震える足を抑えながら口を開いた。しかし、言葉を全て言い終わる前に、それを遮るように岡田首相が叫んだ。
「大尉風情がでかい口叩くな!」
岡田首相は激しく庄次郎を蹴り上げた。庄次郎はひたすら土下座するしかなかった。それでも岡田首相の怒りは収まらない。土下座した頭を踏みしめながら更に言葉を続ける。
「貴様が私の護衛だと? 笑わせるな。貴様のような若造に守られる程もうろくしておらんわ!」
その直後、
「ぎゃー!」
「何者だ!」
「問答無用!」
急に辺りが騒がしくなってきた。鳴り響く銃声。数十人はいそうな激しい足音。既に警備をしている警官達が射殺されてしまったことは容易に想像できた。
「岡田を捜せ! 見つけ次第殺せ!」
襲撃の目的が岡田首相であることは明白だった。ここにきて初めて岡田首相は事の重大さに気付いた。
「小隊で襲撃されるとは……軍は何をしておるのだ……」
「閣下は逃げてください。ここは私が……」
高官は銃を抜きながら駆け出していった。しばらくすると激しい銃撃戦が始まった。その銃声を聞きながら岡田首相は逃げていった。
「こちらにどうぞ」
庄次郎は岡田首相の逃げる道を探しながら誘導していった。岡田首相を襲撃している者達は、岡田首相が言う通り、単なる暴漢ではない。統率された軍隊である。指揮官の下に緻密な動きで岡田首相を追いつめる。人数も数十人である。
最早逃げ道も塞がれ、さすがの岡田首相も死を覚悟した。しかし庄次郎は諦めない。
「閣下! 閣下は何が何でも生きていただかなければならないのです! お気を確かに! 私が守って差し上げます」
岡田首相は庄次郎の気迫に圧され、素直に従った。しかし、岡田首相を襲う軍人達はことごとく逃げ道を塞いでいく。数人の警備も圧倒的な数を前にしては極めて無力であった。銃で応戦するも軍人達に皆殺しにされた。
逃げ道がなくなったと判断するや否や、庄次郎はその部屋にある押し入れに岡田首相を誘導した。
「こんな場所に入っていただくのは大変無礼だとは思いますが、これも逃げ切るため……」
「分かっておる。構わん。貴様はどうするのだ?」
「私は、ここに近づく者達を討ちます」
そう言い残し庄次郎は駆けていった。暫くすると、庄次郎はある反乱軍将校と対峙した。
その者は、生田次郎と難波大介。庄次郎と同期で軍に入隊し、かつて苦楽を共にした同士だった。
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ