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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
novelistID. 12248
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天上万華鏡 ~地獄編~

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 最初こそ緊張していた庄次郎だったが、歌い出すとそれは心地よさに姿を変えた。春江の伴奏が、庄次郎の胸に染み渡る。自分も歌っているからこそ、その歌声が優しく交差していく様がよく分かる。庄次郎の歌のリズムや抑揚に合わせてバイオリンも変化していく。春江の心遣いや息づかいが庄次郎の胸に響いていった。
 音楽を共に楽しむとはこういうことなのか。心の通い合う大切な人との絆を確認する方法はここにもあったのか。庄次郎の胸は高鳴っていた。
――――思い出した……あの湖畔で春江と会って、夢を語って、歌を歌って……こんな大事な記憶が失われていたなんて……
 驚愕のジャッジをよそに、映像は進んでいく。
「春江さん……戦地に赴かなければならなくなりました」
「え?」
 春江はあからさまに狼狽した。戦地へ赴くということは、全てを捨てて、国のために尽くすということ。それが何よりも優先される。それが軍人の考えだった。
 だから春江は、庄次郎と一緒にいることに至高の喜びを感じつつも、庄次郎の出兵により潔く身を引かなければならないと考えていた。
 しかし、庄次郎は、その姿を見ながら、別のことを考えていた。春江は、自分の事を考えて身を引くだろう。そういう女だ。だからこそ逆を行く。軍人としての誇りより、春江を愛することを選んだのである。
「皆は死して天皇陛下のためとなれ。と言いますが、私は……」
「え?」
「なんとしても……帰還したい」
「庄次郎様……」
「帰還した暁には……夫婦になっていただけませんか? 私はあなたを命懸けで守っていきたい。その資格があるならば、決して死ぬことなくあなたの元に帰ってくることができると確信します。私はあなたがいて強くなることができる。それを証明したい」
 庄次郎は、春江に愛を捧げながらも、不安な気持ちが脳裏をよぎった。勢い余ってプロポーズしたけれども、春江の気持ちはどうなのかと。
 自分のことを慕っていることは分かっていた。しかし軍人にあるまじき言葉を発することで、軽蔑されたかもしれない。
 春江が自分の言葉を聞いてどう思ったのか知りたい。そんな思いから、庄次郎は春江の顔をそっと覗いた。すると春江は悲しげな表情を浮かべた後、目に涙を浮かべていた。
 春江は庄次郎と目が合うと、ハッとしたように素早く庄次郎から背を向け、駆け出そうとした。
 どうして悲しんでいるのか。自分が出兵するからか。それともプロポーズしたことが春江の中ではショックなことだったのか。その涙の訳が分からなかった庄次郎は不安げに、
「春江……さん?」
 と呟いた。
 庄次郎の言葉で我に返った春江は、庄次郎に振り返った。
「庄次郎様。私は待っています。絶対に帰還されると信じて待っています」
 互いの顔を見合わせながら静かに微笑んだ。庄次郎は、先程まで、弱々しく涙をこぼしていた春江の瞳の奥に、自分を全く疑うことなく信じ抜こうとする揺るぎない心。それが愛となり自分の心に注がれるのを実感した。
 いつもの湖が夕焼けが反射してキラキラしている。自分達を包み込むような優しい光に囲まれながら、春江と何も語らずとも十分すぎる程、心を通わせた。
 そう思った頃、春江がゆっくりと口を開いた。
「庄次郎様……あなたは私のために生きて帰ると言われました。なら、私も申しましょう。軍人の妻として、あなたのためでしたら、いつでもこの身を捧げましょう。いくらこの身が裂かれても、あなたのために捧げることをお誓い申し上げます」
 庄次郎はゆっくり春江のもとに近づいた。そしてそっと頭を抱いた。春江は吸い寄せられるように庄次郎の胸板に顔を埋めた。
 春江を命がけで守りたい。自分の手で幸せにしたい。そう心に誓った瞬間だった。
 春江との絆を再確認し、守る者ができた庄次郎は輝いていた。出兵した先は中国。過酷な戦場だったが、常に春江の事を胸に抱き、任務を積極的に遂行しながらも、何が何でも生き残ろうとした。時には補給線が絶たれ、食べ物が尽きたこともあった。栄養失調で倒れていく同士がいる中で、庄次郎は強靱な精神力で乗り切った。
 そして、数年経った後、帰還命令が下った。
「やっと春江さんにお会いすることが出来る。この日が来るのをずっと夢みていた」
 庄次郎は、故郷に向かう列車の中で呟いた。庄次郎の手には春江の写真。何度も眺めたのだろうか。写真の縁は手垢で真っ黒になっていた。庄次郎が乗る列車は帰還兵で溢れており、すし詰めになっていた。でも庄次郎にはその窮屈感すら心地よかった。やっと春江に会える。その思いで満たされていたからである。
 暫くすると、故郷の駅に着いた。そして真っ先にあの湖に急いだ。そう春江が待つ湖に。
 湖はいつものように静寂に包まれていて、水面はキラキラと日光を反射していた。そこに後ろ姿の春江がいた。
「春江さん……帰って参りました」
 庄次郎の言葉を聞いた春江は、ゆっくりと振り返った。いつもと変わらない春江だったが、その瞳は潤んでいた。
「庄次郎様……信じておりました。」
「春江さん……」
 お互い、見つめ合って動けなくなった。庄次郎の出兵により一時は別れを覚悟したためか、若しくは戦争で戦死するかもしれないという緊張感から解放されたからか、再会できた奇跡を前に、ほとばしる喜びを上手く表現できずにいた。
「私は駄目ですね。庄次郎様がお勤めを果たされて、やっとお会いできるおめでたい日だから泣くまいと思っていたのですが……涙が出てしまいました」
 健気に気遣う春江を前にして、春江のことを愛おしくて堪らなくなった。庄次郎は、何も言わずに春江の肩に手をかけると、ゆっくりと抱きしめた。
 暫くお互いの温もりを感じながら行き交う愛情を確かめた。春江は、こみ上げる喜びが涙となってゆっくりと流れていった。その涙に気付いた庄次郎は、抱きしめている腕の力を緩め、春江の顔を見つめた。そして、涙を拭いながらニッコリと微笑んだ。
 そんな春江の様子を見ながら、庄次郎は、念願だったあの言葉を口にしようと決意した。
「春江さん……私は不器用な人間です。まだまだ半人前です。これから軍人として研鑽を積まなければなりません。私は春江さんを満足させる男ではないかもしれません。でも……でも……命がけで守りたい。そう思います。そんな私を信じていただけるならば……妻になっていただけませんか?」
 春江は驚きの余り、嗚咽が止んだ。そして緊張した面持ちをしながら庄次郎を見つめた。
 暫く何も語らなかった。その間、様々に表情が動く。その様子を見ながら庄次郎は不安でならなかった。どんなことを考えているのだろうと、気になった仕方なかった。
 そんな不安な気持ちを察してか、春江はようやく口を開いた。その表情は先程までの涙に濡れたものではなかった。何か決意をしたような凛としながら落ち着いた瞳。そんな面持ちでいた。
「庄次郎様……お願いがあります。何が何でも生き続けて下さい。決して軽はずみなことで命を落とさないで下さい。格好悪くたっていいですから……絶対に死なないって約束していただけますか?」
「春江さん……」