天上万華鏡 ~地獄編~
そんな緊張感を尻目に辺りは静寂に包まれ、一向に変化しなかった。いくら駅を通過しても誰も攻めて来ない。そんな状態にネロ達はしびれを切らしてきた。
「殿下、敵は攻めてこないのではないでしょうか。我々に恐れをなして……」
「根拠のない憶測は、我々を地獄の深淵へと誘う。常にあらゆる可能性を想定すべきなんだよ。変化がないからこそ我々に綻びが生まれる。そこを狙っているとしたらどうするんだね?」
「失礼しました!」
ネロは親衛隊をたしなめながらも同じ事を考えていた。このまま攻めて来ない可能性は非常に高い。だとしたら敵の意図は何なのだと。
そう思いを巡らせた直後、その答えが分かることになる。
「次は秋葉原、秋葉原、降り口は右側です」
暫くして秋葉原駅に着くと、ドアが開いた。敵が攻めてくるのではと戦闘態勢に入るネロ達。やはりここでも伊達家は攻めて来ない。しかし、新緑の裃(かみしも)を上品に着こなす少年が神妙な面持ちで入ってきた。品川駅からずっと誰も霊は入ってこなかった。次なる変化にネロ達はこの事態をどう理解すればよいのか結論が出ないまま、少年はネロの前まで歩いて来た。親衛隊達は不測の事態に備えるために少年をの行く手を阻みネロを守ろうとした。
「失礼しました。名を名乗らぬならば警戒されてもしかたないのこと。私は当主伊達政宗の使いで只野作十郎と申します」
伊達という言葉を聞いた途端、親衛隊達は、一斉に拳銃を向けた。一方只野は向けられた拳銃に対して一切反応せずにじっとネロを見つめた。
「刀を抜いていない者に対して銃を向けるのがあなた達の流儀なんですか?」
毅然とした態度で言い放つ只野。絶体絶命の危機にありながら、動揺の欠片も見せなかった。
「あなたが何者か分からない以上、警戒を続けるのが定石。それともジパングでは「汝の敵を愛せよ」みたいな生ぬるいことを言うのが流儀……とは言わないよな?」
「ネロ様! 敵といえど礼節には礼節でもって返すのが日本の流儀です!」
「真之介、ならば言うが、ローマでは使いの者に最大の屈辱でもって返すのが流儀。生ぬるいジパングの風習に甘えて大きな事を言うのでは私を納得させることはできないんだよ。我々に牙を剥いている以上、その責を使いの者に負わせようとするのはごく自然のこと。違うか?」
「それは日本の流儀ではありません!」
真之介は身を震わせながらも精一杯抗議した。ネロは日本の流儀を知らない。敵の大将が使いの者を送るということは、和解を含めて大事な提案を預かってきているはず。そのことを察せずに使いの者に対して非礼を働いたら、後世卑怯者の汚名をかぶせられるのは必定。この結論に至ることを知る真之介は黙っていることができなかったのである。
「只野とやら、あなたは自分の存在を賭けてここに来たと言えるか? あなたの君主のためにその身を裂く覚悟があるのか?」
「愚問なり」
と言いながら微笑むと、只野はその場にしゃがみ込んだ。そして、裃の上着を脱ぎ、その下に着る白衣を晒した。更に白衣の懐を大きく開けると、胸から腹にかけてその肌が露わになった。この動きを見たネロ達は何をしようとしているのか分からずその顛末を見守ったが、真之介だけは、その真意が痛すぎるほど分かっていた。それはかつて自分も辿った道だったからである。
切腹である。その所作は武士だったら誰にでも分かる。
切腹は激痛に耐えつつ自分の力で腹を切り裂かなければならない。並の神経だったら痛みの余り手を止めてしまう。また激痛の割りには絶命するまで時間がかかる。武士として卓越した精神力があってこそ成り立つものなのである。
真之介は眼球を細かく動かし、額には冷や汗を垂らし、明らかに動揺した様子で眺めていた。一方、只野は懐から脇差しを取り出すと、目の前にそっと置いた。
「伊達の覚悟、とくとご覧下さい」
と言うや否や只野は勢いよく脇差しを手にすると、一気に鞘を抜いた。ネロ達は鞘を抜いた脇差しを見ると自分達に攻撃をすると思い込み、銃口を只野の頭に向け、発射しようとした。しかし只野が持つ脇差しはネロ達に向けられることなく、むしろ自分の腹に向けられた。そして勢いよくその刃先は只野の腹の深くに突き刺さった。そして更に突き刺したまま腹をかき混ぜるように動かし続けた。
痛みの余り脂汗を流しながらかすかなうめき声をあげる只野。その目は血走り憤怒の形相でネロを見つめた。
「日本人は自らの想いを追究するために時には我が身を犠牲にします。命を賭してまで譲れない誇りがある。これが日本人です」
「ほう。分かった。あなたの覚悟認めてやろう。その行為をもって我々に働いた狼藉を全て不問に伏す」
ネロは、只野前に腰を下ろすと、腹に刺さった脇差しを抜くように促した。そして只野に向けている銃口を降ろさせた。
「只野さん。あなたは君主の名代として私と交渉しに来たんだよな? 話を聞こうじゃないか」
かくしてネロと伊達の交渉が始まった。
「単刀直入に申し上げます。我が当主、伊達政宗はあなた方と手を組みたいと申しています」
「ん? 我々はあなた達と事を構えたのはほんの少し前の話。どうしてあなたの当主は我々のことを?」
「これより当主の元へ案内差し上げます。そこでゆっくりお聞き下さい」
「ほう。随分手荒い交渉だな。私がそう易々とあなたの当主の元へ行くとでも?」
「左様でございます。私の言葉を聞いてあなたはこう考えた。こんなに早く和解の提案をするのは何か裏があるはずだ。この決断をするために十分な情報が当主の元に集まっているに違いない。そのために当主の元へ行き、直に確かめる必要がある。更に自分の根城をそこに定めようと」
「ほう」
「そして私の言葉を聞いて、あなたはこう考えた。使いの者でここまで分かるのだ。当主だったらもっと頭が切れるに違いない。だとすれば手を組むうまみがあるというもの……と。我々伊達はあなた方の事を十分に承知しています。しかしあなた方は私達のことを知らない。この立場の違いをあなたは是としないはずです」
ネロをたしなめている只野を前に、親衛隊達の緊張が走ったが、とうのネロはむしろ笑みを浮かべて只野を見つめていた。
「お見事。分かったあなたの当主の元へ行くとしよう」
「ありがとうございます」
初めて笑みを浮かべる只野。その時電車は御徒町駅を過ぎ、上野駅に着こうとしていた。
「上野、上野、降り口は左側です」
上野に着いたことを指すアナウンスを聞くと、只野はさっと立ち上がり、降り口にネロ達を促した。
ホームに足を運ぶネロ達。そこには伊達家の者と思われる武士達が慌ただしく行き交っていたが、只野の姿を見るや否やその場に跪いた。
「ささ、こちらへ」
只野先導でホームを後にするネロ達。他の駅と違って伊達家の武士に溢れていた。
「あなた達の根城はここなのか?」
ネロがそう思うのも無理はなかった。駅舎内に入っても伊達家の武士以外おらず、まさに伊達家の持ち物と言わんばかりの様相を呈していたからである。
「上野駅はあくまでも移動の拠点に過ぎません。ここの守りを固めなければ本丸の守りが甘くなる。その意味では大事な場所です」
作品名:天上万華鏡 ~地獄編~ 作家名:仁科 カンヂ