アヤカシ模様
隣山に通ずる山道は途中から道なき道に変わる。生い茂る草木に腕を取られながら、透は進んだ。あと少しで陽を失おうとしている森は薄暗く、不気味さを醸し出していた。走り続けて流れた汗が透の背筋を冷たく伝う。閉ざされていた視界が急に広く開けた。見通しのいい荒れ果てた場所のさき、いまや真っ黒な影そのものとなった、強大な大樹があった。
切れる息を密やかに整えて、下駄の音が響かないようにゆっくりと歩く。夜に浸食された樹々の傍にソレはいた。
最初、透は大樹の傍に影が落ちているだけだと思った。しかしよく見ると枝々の間に落ちるにしては、ソレは歪で凹凸を持っていた。それが人型をしていると気がついた時、透は息飲んだ。
眠っているようだった。真っすぐに伸びた銀色の髪は長く、着ている浴衣の裾がゆらゆらと揺らめいていた。
透はここでやっと、自分が何故ここに来たのかを自問した。
透がここに来たのは紛れもなく噂を聞いたからだ。それを己の眼で確認したかったのだが、それ以降のことをまったく考えていなかった。ソレはまるでさも当然とばかりに、存在していた。
「なあ、もし」
透き通った、声だと思った。耳障りがよく、しっとりとなじむような音程。しかし、その声がどこからするのかと考えて、透はおそるおそるとソレを見た。
「なあ、もし」
さっきよりもゆっくりと声が発せられた。透は影法師の薄い口唇がゆるりと動くのを見た。閉じられていた瞳が、夢から覚めるようにゆらりと開かれる。
「いい音だね」
その時初めて透は、風が運んでくるかすかな太鼓や笛の音色に気がついた。影法師は今にも鼻歌を歌いだしそうな上機嫌でいう。
「祭りといえば焼きとうもろこしだよね」
「・・・へ?」
透は呆けた声を漏らした。相手は気にした風もなく片目を閉じて見せた。
「君は食べたことがあるかい、焼きとうもろこし」
「ええっと・・・ない、かもしれません」
「だろうね」
何故か納得したような相槌を打ちながら、影法師は樹にもたれかかる。
深い夜色の瞳が喜色を表していた。影法師の姿は人型そのものだったが、噂通り一瞬で闇に消えてしまいそうな濃紺色の着物を着ていた。動揺を隠すように真顔を保っていると、影法師がすっと透を見つめる。
「君は?」
「えっ」
唐突の問いに透は固まる。噂ではすぐに消えていく筈の影法師はどこか楽しげに透の答えを待っていた。何故。という疑問が透の胸の中に浮きあがる。
気を落ち着かせるようにして下駄の先を合わせて、軽く一礼する。
「とおる。僕は透といいます」
一瞬、影法師は不思議そうに透を見つめた。しかしその表情もすぐに変わる。
「透君だね。わたしはアヤメ。アヤメと呼ばれている」
「アヤメ、さん」
透は眼の前の不思議な者を確かめるようにその名前を繰り返した。その時、太鼓にも負けない音が夜空に広がった。透は大きく空を振り返る。南西の先の空に夏の花火が上がっていった。透は血の気が引くのを感じた。
「約束!」
「ん?」
透は着た浴衣の裾をぱたぱたと動かす。
「ぼ、僕、友達と会う約束をしていて、行かないといけないんです!」
「そう」
アヤメはゆったりと樹にもたれながら頷く。長い髪を後ろに流す。
「それは急がないといけないね。気をつけて行くといい」
そんな人めいたことを言うので透は思わず苦笑を零して、踵を返そうとした。ふと思い立って、もう一度アヤメを見る。
「さっき言っていましたけど。焼きとうもろこし、お好きなんですか?」
アヤメはぱちぱちと瞳を瞬いた後で、微苦笑を洩らす。
「いや、でも。あれは人の食べ物だからね」
透は力強く胸を叩いて見せた。
「それじゃあ僕が買ってきてあげます。あっでも祭り会場から離れているから冷めてしまうのは否めないけど、勘弁して下さいね」
アヤメは眉をひそめて怪訝そうに透を見つめる。
「いや、しかし」
「大丈夫、まかせて下さい。おいしいの買ってきます。だから!」
透は懸命に、縋るように影の化身を見つめた。懇願するように言う。
「また、僕と逢ってくれませんか。どうか、消えないで下さい。今日、消えないでくれたのは、気まぐれかもしれない。奇跡かもしれません。でも、どうか、どうか・・・」
最後の声はまるで囁くように消えた。切望する少年の姿に影法師は首を傾げる。しかし懸命に見上げる子供に、影法師は小さく頷いて見せる。透は安堵の息を吐いたのち駆け出した。
「いいが、なあ、もし。君は、もしかして」
「えっ?」
戸惑った声に透は後ろを振り返り、眼を見開いた。確かにいた筈のその姿は大樹のどこにも見当たらなかった。
「アヤメ、さん」
名を呼ぶも帰ってくる声はなかった。口元を引き結んで僅かに逡巡した後、透は再び駆け始めた。縋りついた新たな約束を果たすために。