アヤカシ模様
からん、ころんという軽やかな下駄の音が畦道に響く。萌黄色の浴衣を着た透は懸命に駆けていた。用意に思いのほか時間がかかり、透は大慌てで通り慣れた道を走った。青々と広がる稲葉が風に涼しげな音を立てる。走りながら透は夜色に染まりつつある東空を見上げた。西空には燃えさかるような陽が僅かに残るばかりだ。
駆け続ける畦道の前方からこちらに歩いてくる大人、いや青年の姿が見えた。透はその変わった外見に僅かに眼を瞬いた。赤色の髪にどこか眠たげな碧瞳という田舎では見ない異国人は辺りを見回しながら歩いている。
観光客、もしくは帰省した人か。透は不思議に思いながら傍をすり抜けた。すれ違って間もなく、透の下駄先が道上で滑った。
「うわぁ!」
「おっと」
傾倒した透の身体が首根っこから掴み上げられる。
「ぐへぇ」
閉まった透の喉から間抜けな苦悶が零れ、相手は「ああ、悪い悪い」と呟きながら透を地面に落下させた。呼吸が戻った喉を撫で、透は咳を零したあとで足元を見た。転んだ下駄先には跳ねた泥がこびりついていたが、何故急に滑ったのかが分らない。透は首を傾げた。
「おかしいな・・・」
「何が、おかしいんだ」
「あ」
顔をあげた透はこちらを見下ろす青年と眼が合った。流暢な日本語だった。
「少し用があるんだが」
「僕に、ですか」
青年は透を見下ろしことりと首を傾げる。どこか緩慢な動作だ。
「このだだっ広い場所でおまえ以外に誰がいるんだ」
「そう、ですね」
不思議な相手からの素朴な疑問に透は少し困惑する。それに構わず赤髪の青年は続ける。
「話を戻すんだが、この辺りで何か変なものを見なかったか」
「変なもの、ですか」
透は男の抽象的な例えに首をひねる。青年は手振りを加えて説明する。
「少し背が高いんだけど、なんていうのかな。長細くてひょろりと伸びたひどく変な影みたいやつなんだが、知らないか?」
強い風が、吹いていた。山から吹きこんだ初夏にしては肌寒い風が、暗くなり始めた辺りの全てを揺らしていた。強い風に煽られた透は僅かに眼を見開いた。
影法師。ぽつりと言葉が透の胸内に落ちた。
前髪を揺らすようにして、透は首を振るった。
「いいえ。知りません」
「あ、そう」
青年は特に気にした様子もなく言う。
「少し噂が流れていると聞いてきたんだが、勘違いかな」
独り言を零しながら青年は再び歩き始めた。そっとその背中を見送った透は約束を思い出してやや青ざめた。慌てて走り出すと軽やかな音が辺りに響く。その背後で赤髪の青年は鋭い一瞥を透に向けていた。
「今のこども、何か知っているようだった。言いたくないなら別にいいけど、なんなんだろうな、あの間は。故意に隠したのか、それとも別のワケなのか・・」
呟きながら青年は濃緑の海原を泳ぐように進んでいった。
「・・・あの人、なんなのだろう」
あまり見かけない異国人の姿に透は首を傾げるが、深くは気に止めなかった。下駄を響かせながら、畦道を駆け抜ける。
腕組みをし、イライラと待っている和也の姿が容易に想像できて、透の焦りは一層増した。雑草が一面に生えてしまった田の傍を通り過ぎていくと左手に隣山の方へ向かう坂道が見えてきた。そちらは祭りの広場と正反対になるため透は分かれ道にちらりと視線を寄こすだけにした。勾配の先には鬱蒼と茂った山林が濃紺の闇に染まりつつあった。ふいに空を見上げて透は呟く。
「逢魔が時・・・」
汗に濡れた肌の上を、うすら寒い風が吹き荒れ始めていた。視界を蔭る闇の様子に透は我知らずに唾を飲み込んだ。
『奇妙な影が、いるんだってよ』
透は唐突に和也から聞いた噂話を思い出した。駆け続ける足を止めずに、透は分かれ道の前を通り過ぎた。しかし、進み続けていた足が速度を落としていく。
『まるでゆらゆらと揺れる妖みたいな話だね』
何処か遠い場所から懐かしい声が聞こえてきたような、そんな気がした。
鬱蒼と茂る森は強風にざわめき、騒ぎ立てる烏の鳴く声が聞こえた。揺れる不気味な森の姿を眺めていた透は踵を返して、森へと走り始めた。