My Little Angel
「そう、それじゃ駅までは話せるね」
理久が腰をおろすと、彼女はにこにこしながら当然のように隣に座った。普通、もっと遠慮するなり、こちらの意向を尋ねるものではないだろうか。人懐こいにもほどがある、と呆れてしまう。痴漢にあった直後なのだから、もう少し警戒するという事を学習できないものだろうか。
そんな事を考えながら何も言わないでいると、彼女は理久の顔を覗き込みながら制服に触れた。
「その制服、夕陽丘だよね。懐かしいな」
「なつ…?」
懐かしい、とはどういうことだろう。目の前の少女は、どう見ても自分と同い年か、せいぜいひとつ上にしか見えない。
「母校なんだ。君から見れば先輩って事になるね」
「今は違うのか?」
「え?」
「お前、何歳だよ?」
「ああ」
理久の問いの意味を理解すると、彼女は笑ってバッグの中から免許証を取り出した。
「阿比留恵深、にじゅーろくさい、子持ち」
確認すれば確かに、その通りだった。
「悪い、いや…すみません、失礼を」
「いいのいいの、慣れてるし、若く見られた方が嬉しいよ」
恵深は二十六歳らしからぬあどけない笑顔で首を振る。これで子持ちなんて詐欺だろう、という文句は内心に留める。
恵深とは駅前で別れ、遅れた分急いで帰宅すると、真央は既に仕事を済ませリビングで書きものをしていた。
「遅れて申し訳ありません。すぐに着替えてきます」
遅刻を詫び、音を立てぬように階段を駆け上がって、制服を脱ぎ、予め用意していた私服に腕を通す。柄のないブルーグレイのワイシャツにクリーム色のジャケットを羽織り、グリーン系チェックのスラックスを合わせた。フォーマルというほどかっちりではないが、どんな場にでも合うクラシックな装いを選んだつもりだ。
準備を済ませ階段を下りると、真央は既に玄関で靴をはいていた。理久は外出用のローファーを履き、饗庭に促され車に乗り込む。
15分ほどかけてたどり着いたのは、商店街の一画に軒を連ねる落ち着いた雰囲気の飲食店。普段祖父が利用するのは高級ホテルのラウンジや老舗の料亭だから、これは随分なランクダウンだ。どう考えても先方の好みだろう。
しかし祖父が相手の希望を優先するとは、理久にとって意外な事だった。
予約していたテーブルについたが、相手はまだ来ていないようだ。真央はウェイターを呼び付け三人分の食前酒をオーダーすると、無言でメニューを広げた。
待ち合わせの時間から、10分、20分と過ぎても、相手は姿を見せなかった。しかし祖父が気にしている様子もないので、理久もまたじっと待ち続けた。
「遅れてごめんなさい、患者さんに引き止められてしまって…」
聞き覚えのある声が背中からかけられた、更に30分経過した時だ。
(まさか)
「構わない。雪華クリニックから要請があったのは聞いている」
真央が僅かに口元を綻ばせ声の主を招く。それは理久が今まで一度も見たことがない祖父の笑顔だった。
彼女がヒールの音を響かせながら視界に入った時、理久は愕然とした。
「理久、彼女はうちの病院の心療内科の阿比留恵深。実は彼女と結婚しようと思っている」
「はじめまして、恵深で…あっ!」
「…どうも」
「何だ、お前達、もう知り合っていたのか?」
──援助交際ではなかった。大人同士が合意の上の情事なら、子供の自分が口を挟むことではない。その事実には安堵したが、ここ数日の気苦労は何だったのだと考えると、鈍い頭痛がしてくるのだった。
作品名:My Little Angel 作家名:9.