My Little Angel
祖父に限ってそんな馬鹿な事がある筈はないと頭を振りながら、しかし「そうかもしれない」という疑念は拭えない。そんな問題でもなければ、あんな年端もいかない少女をめとろうなどと言い出すわけがない。
…真央に理久の思考が読めていたならば、「まだ何も言っていないだろう」とつっこんだに違いないが、幸か不幸か彼はエスパーではなかった。 目の前で悶々と悪夢のような妄想を繰り広げる孫に声をかけるでもなく、作りかけの料理を自分が食べるわけでもないのに仕上げてしまう。
結局理久はその日一睡も出来なかった。
◇ ◆ ◇
弓道部主将である理久は、誰よりも早く部室に赴き鍵を開ける。本来は当番制だったのだが、前主将から引き継いだ時からそれが理久の日課となっていた。それは朝練前の自己練習の為であり、自ら負う責任を日々噛み締める為でもある。
夕陽丘の弓道部は、団体戦においてはさほど強豪校というわけでもない。この学校は高い偏差値と合格率を誇る有数の進学校である為、部活動にはそれほど力を入れていないのである。生徒も最上級生になった途端、受験の為部活を辞めてしまうのが大半で、部に残るのは全体の三割にも満たない。だから大抵の運動部では二年生が部長を務め全体をまとめあげる。理久自身、一年の秋から主将を任されていた。
三年に上がっても理久が部に居残ったのは、悔いを残したくなかったからだ。昨年夏の大会前に肩を負傷し出場叶わず、思うような成績が残せなかった無念が、続行を決意させた。部活動中心の生活というわけでもないが、このままで終わらせたくはない。
時期的には春の大会が一段落し、夏に向けての充電期間といったところ。適度の休息と緊張感の維持が必要なターニングポイントだ。ここで気を緩めれば、積み上げてきたもの、身体のリズムが崩れてしまいかねない。
油断するつもりは更々なかった。
「理久、どうした?」
ウォーミングアップを終え稽古に入ると、副将の倉科雨竜(くらしな・うりゅう)が心配そうに声をかけてきた。彼もまた、三年でありながら部活を続けているひとりだ。
「何がだ?」
「顔色が悪い。それに、少しぼっとしてただろ。何か悩んでるのか?」
自覚なく思い悩んでいた理久は、指摘されてはじめてハッとした。
「部の事か?」
「違う。何でもない」
雨竜とは十年来の付き合いになる。気心知れた親友であり、ごまかしのきかない相手だ。だからこそ余計に煩わせたくないと視線を逸らせば、雨竜は溜息をつく。
「お前に覇気がないと部員全体が影響を受けるんだよ。見てみろよ、あいつら心配そうにこっちの様子チラチラ見てるだろ。集中しないと怪我の元だってのに。で、何をそんなに思いつめてるんだ?」
責任感の強い理久の性格を熟知している雨竜は、理久をなだめ話を引き出すのが天才的に上手い。それもそうだと納得する一方で、悔しさに唇を噛む。
「お爺様が再婚するかもしれない…」
「再婚?なんだ、いいことじゃないか」
「全くよくない」
「…何で?」
怪訝そうに首を傾げる雨竜に意を決して洗いざらいぶちまけると、彼は呆れたような顔で理久を諭した。
「全部お前の思い込みじゃないか。院長先生に直接聞いたわけでもないんだろ?お前が見たのは別人で、会わせたいのは女性じゃないかもしれない。今からくよくよ考えたってしょうがない。会ってからの話だろ」
「それは、そうだが…」
自分だって、何度そんな風に割り切ろうとしたかしれない。だが、ホテルの前で少女に触れる祖父の姿が、瞼にこびりついて離れない。
(見間違いなんかじゃない。あれは絶対にお爺様だった)
たとえ週末に引き合わされる人物があの少女でなかったとしても──祖父が女子高生と援助交際しているという疑惑が晴れることはない。
やはり問い詰めるしかないのか──しかし自分にそれができるとは思えなかった。
着替えを終え、部員全員が出るのを待ち、部室に鍵をかけると、まっすぐ駅に向かった。理久は電車通学だ。普段なら途中駅まで雨竜と一緒だが、彼はこれから恋人の楠木樹里(くすのき・じゅり)とデートだというので校門前で別れた。
(恋人、か……)
自分には縁のない事だと理久は思う。そもそも人を好きになるという感覚が理解できないし、周囲の者達が恋愛沙汰で一喜一憂する様を見ていると尚更、恋愛などろくなものではないと感じた。
真昼の電車は、遮断機の故障でダイヤが乱れた影響で、土曜の真昼にしてはかなり混雑していた。当然座席は全て埋まっていたので、発車ぎりぎりに乗り込んだ理久は、出入口付近に立っているしかなかった。
二駅目を過ぎた頃、隣に立つ少女の様子がおかしい事に気付いた。眉間に皴をよせ、頬はほんのり色づき、辛そうに瞼を閉じている。
(熱でもあるのか?)
具合が悪いならば、席に座らせてもらうことも容易だろうと声をかけようとした時、不意に少女と目が合った。
「っ!」
彼女は、苦しげというよりは戸惑ったように眉を下げ、理久に向けて微笑む。潤んだ瞳に動揺し、心臓が煩く騒ぎたてた。
そして気付く。具合が悪いのではない、彼女は後ろの中年男に尻を執拗に揉まれていたのだ。
理久はすぐさま痴漢の手を掴み、腕を捻り上げた。
「ひっ……」
男が小さく悲鳴を上げても、構わずに両腕を拘束する。丁度ホームに滑り込んだのでそのまま下車して、痴漢を職員に引き渡した。
簡単な事情聴取を受けて解放されると、理久は時間を確かめ、地元に向かう電車を待つ事にした。
「あ、待って!」
きびすを返しホームに向かいかけた背中に声がかかる。振り向けば先程の少女が追い掛けるように走って来た。
「何か?」
「ちゃんと御礼言ってなかったから。ありがとう」
「別に」
目の前に犯罪者がいたら、捕まえるのは当然の事だ。礼を言われるような事ではないと言えば、彼女は大きな瞳を細め微笑む。それは妖艶と形容するのが相応しかろう、大人の表情だった。
「見てみぬ振りをするのが当然なんだよ。大半の人にとっては、ね」
よく見れば、彼女は上から下まで男性を刺激するような露出の多い服装だった。胸元が大きく開いたボディーコンシャスなプルオーバー、下着が見えてしまいそうなほど際どいミニのタイトスカート。こんな格好で満員電車に乗るなど、「触ってください」と言っているようなものだ。
──あれじゃあ、おれだって触りたくなるね。誘ってるんじゃないのか、あの娘は。
電車を下りる間際、乗客が呟いた言葉がふと思い出される。
「こんな目に遭いたくないなら、もう少し慎みある服を着た方がいい。でないと、お前にも責任があると中傷される」
思わず顔を顰めながら忠告すると、彼女はあっけらかんとしてのたまった。
「まぁ、誘ってはいるからね」
「……は?」
信じられない発言に唖然とする。
「といっても、世の男性全てを誘惑したいわけじゃないよ?たったひとりが引っ掛かってくれれば」
「なら、そいつの前でだけ着ればいい」
「…彼もそう言ってた」
歩きながら話していると、ホームに電車が滑り込んでくる。理久がそれに乗り込むと、少女も一緒についてきた。
「二駅先に用があるんだ。君は?」
「…同じ」
作品名:My Little Angel 作家名:9.