My Little Angel
天使来臨。
一言で「結婚」と言っても、その形は人それぞれ、千差万別。初顔合わせに結納と、伝統を重んじ段階を踏んで挙式を迎える家もあれば、籍を入れるだけで式は挙げない、というのもよく聞く話。いずれにせよ、お互いの気持ちを確かめてすぐ「今日から夫婦、さあ新しい生活こんにちは」とは、いかないらしい。
あの嵐のような食事会から、はや数日。以来不気味なほど何の音沙汰もなく、理久は少々肩透かしを食らったような気分だった。
もとより、気軽に言葉を交わす間柄でもない。祖父と顔を合わせるたび喉まで出かかるものの、「あの話はどうなったんですか」などとは聞くに聞けず、「もしかしたら別居婚なのかもしれない」と楽観に傾きかけた頃、事は起きた。
その日も例により剣道の練習で帰宅が遅れた理久は、いつもならば真っ暗な我が家の居間と玄関とに煌々と明かりがともっているのを目にして、不審に思いながら鍵をさした。車庫に車が止まっているわけでもないから、祖父が先に帰ったのではないだろう──考えながらノブを捻り、ドアを開けた途端、理久はそのドアを勢いよく閉じた。
あるはずのないものが見えたのだ。一瞬、家を間違えたのではないかと疑い、そんな馬鹿げた考えはすぐに打ち消したが、もう一度ドアを開けるには一呼吸が必要だった。
しかしもう一度ノブを掴んだ時、待ち切れないとばかりにドアの方が自ずから開いた。否、内側から開けられた。視線を落とせば、つぶらな青い瞳が理久を見上げた。
「……Hello?」
何故家に外国人の子供がいるのだ、とげんなりしながら、理久は英語で話し掛けた。しかしその少女……いや、幼女と言った方が適当だろうか?とにかくその子供は、ただ首を傾げただけだった。
(英語圏じゃないのか?)
優秀とは言ってもただの中学生。留学や海外滞在経験があるわけでもない理久は、他の外国語など話せなかった。
どうしたものかと腕を組むと、その子供は首を傾げたまま声を発した。
「おかえりなさい?」
どうやら彼女は、理久同様に混乱していたらしい。ワンテンポ遅れたセリフに、緊張が緩む。
(何だ、日本語でいいのか)
後ろ手にドアを閉め靴を脱いでから、理久は安堵の溜息を漏らした。
「オマエ、誰?」
やっと、一番聞きたいことを尋ねる。すると彼女は、にっこり微笑んだ。
「さあや。」
なんとも愛らしい、その表情、仕草。子供にしては滑舌がよく、花が揺れるように柔らかい声色は耳に心地よい。
理久の身体に甘やかな痺れが走った。今まで感じたこともなかった感覚。
(……何だ?)
訝るも、すぐに忘れた。
「それは、お前の名前か?」
聞けば子供はこくこく頷き、なおもじっと理久を見つめる。
「……で、さあや?何で家にいるんだ」
多少居心地悪さを感じつつも質問を重ねれば、自称「さあや」はキョトーンとして、目をパチクリさせた。
「今日からいっしょに住むの」
「は?」
「さあやは、今日から、りくのオバサンなんだよ」
有り得ないことを口にして、にっこり。
(いや、そこでにっこりされてもな)
「俺の名前、知っていたのか」
「うん?まおうに聞いたから」
「ま……お祖父様か」
あの祖父を呼び捨てにするとは、一体何者だ。
本当は微かに気付いていた。だが理久の思考は、深く考えることを拒絶した。
「ただいま紗綾!ひとりにさせてごめんね!って……なんだ、理久も帰ってたんだ」
そこへバタバタと慌ただしく入って来たのは、可憐という形容がしっくりくる少女……いや、少女のように幼い顔立ちの女性。
阿比留恵深──正真正銘、呉羽理久の祖父真央の再婚相手である。
(呼び捨て……?)
人懐こい人だとわかってはいたが、周囲に遠慮される事の多い理久は、恵深の態度にどうにも違和感を禁じ得なかった。
「恵深さん、これは一体どういうことですか?」
「やぁだ、そんな他人行儀な!ママって呼んでいいんだよ?」
「(何だそれは)……」
「呼びにくかったらお母さん、でもいいから!」
「いや……そうではなく、何でここに?」
「え?ああ、あれ?話してなかった?今日から私たちもここで暮らすんだ」
「は?」
開いた口が塞がらないとはこのことか。確かにいずれはそういうことになるだろうと考えてはいたが、これではあまりに急ではないか。何の説明もなくいきなり同居を宣言されて、はいそうですかと頷けるわけがない。
憮然とする理久に気付いているのかいないのか、恵深はそれで話が済んだものと思ったらしい。鞄を置き、エプロンをつけて、スタスタとダイニングキッチンへ向かう。
「待てよ、俺はこんな事了承しかねる!」
「え?」
「再婚の話はわかった。それはいい。だが同居についてはまったく聞いていない」
「……困ったなぁ、真央さん、説明してなかったんだ」
理久の憤りがようやく伝わったようだ。恵深は眉を下げ、叱られた子どものようにしゅんとした様子で俯いた。
「君は、同居には反対なの……?」
「あ、いや」
そうではない。歓迎しているわけでもないが、心底嫌なわけでもない。
「ただ、事前に説明してほしかった」
「そっか……じゃあ、事後じゃ説明しても了承してもらえないのかな?」
「それは……」
説明の内容による。そう答えようとしたとき、下から裾を引かれた。
「あ?」
すっかり忘れていた。視線を落とせば、今にも泣き出しそうな顔で見上げてくる紗綾。
「りくは、さあやといっしょがイヤ?」
「な……」
何故かはわからない。だがどうしようもなく胸が騒ぎ、その感覚から逃れたいばかりに、理久は腕を伸ばした。
「っ?」
「……そうじゃない。違う。お前が気にする事じゃない。だから……泣くな」
潤んだ瞳から溢れそうになっていた涙を指で拭い、肩に回した手でポンポンと背中をやさしく叩く。
「りくはさあやイヤじゃない?」
「イヤじゃない」
「いっしょに暮らすの、いいの?」
「……ああ」
「りくは、さあやと家族になるのイヤじゃない?」
「そんなわけないだろ」
「……さあやはりくといっしょ、うれしい。りくは?」
「俺も、嬉しい」
すんなりと、言葉が出た。普通なら照れ臭くて言えないような気持ちを、紗綾にならば素直に言えると思った。
明かりがついていない家。誰もいない部屋。おかえりと迎えてくれる人がいない日々。寂しかったのだ。本当はずっと、あたたかい家、家族のぬくもりに憧れていた。
誰にも言えなかった、自覚すらしていなかった。
「よかった。りくもうれしい、おかあさんもうれしい。まおも。みんなしあわせ。うれしい、ね?」
納得できなかった、かたくなだった心をほぐす。紗綾の微笑はどこまでも無垢で、だがどこか悟り切ったような、不思議な印象を受ける。
まるで、小さな天使。
「ああ。そうだな」
やっと、祝福できると思えた。
作品名:My Little Angel 作家名:9.