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My Little Angel

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嵐、来る。


 毎日、生徒会の仕事と部活で疲れた身体を引きずるように家に帰る。鍵を開ければ中は暗く、「お帰りなさい」と迎えてくれる人もいない。
 鞄を放り、ネクタイを緩め、リモコンでテレビをつけて、適当に選んだ番組の音声をBGMに、夕食の支度をする。両親が交通事故で他界し、祖父に引き取られて以来ずっとこんな調子で、料理は慣れたもの。用意していたものを火にかけ、ついでに明日の朝食の準備もしておく。
 出来上がったものを食卓に並べ、挨拶もなく食事する。あっさり済ませて、風呂を準備し、明日の準備をしてから湯に浸かる。
 予習復習や宿題を片付けて、夜23時前には床につく。起きている間に大学病院の院長を勤める祖父が帰ってくるのは稀で、寝た後にさえ、毎日帰って来ているとは思えない。
 朝食も大抵独りだ。仮に祖父がいたとしても、会話らしい会話もなくそれぞれの行き先へ向かう。
 それが寂しかったわけじゃない。慣れていたし、不満もない。
 その筈だった。


 私立夕陽丘学園中等部三年呉羽理久は、生徒会長と弓道部主将を兼任する、才色兼備の優等生である。西帝大学病院院長呉羽真央を祖父に持ち、幼い頃事故で亡くした両親は、共に高校教師だった。当然成績優秀、スポーツ万能で非の打ちどころのない彼は、女子にはモテにモテ、男子にも慕われた。近寄り難い雰囲気ではあったが、その面倒見のよさから、特に部の下級生や生徒会の後輩からは絶大な人気を誇っていた。
 しかしそんな理久にも、弱点はある。齢十五歳の思春期真っ盛りに初恋さえまだという、恋愛音痴なのだ。いくら可愛い女の子に告白されようとまるで心が動かず、あっさり振っては、相手を泣かせてしまうという有様だった。かといって友情に厚い男かといえばそうでもなく、相手が一方的に親友だと考えている事も少なくなかった。
 コミュニケーション能力が低いわけでもないのに、理久は人間関係に対して異様に淡泊なのだ。本人はそれで万事不都合なかったのだが、勿論周りはみるにみかね、彼を頻繁に友人同士の集まりや合コンに誘った。理久はあまり乗り気ではなかったが、好意で誘ってくれるものを無下に断る事もできず、そのたびに何のときめきも覚えない退屈な時間を過ごした。
 
 その日も、合コンに参加し、女子のアプローチをすべてかわして帰る途中だった。繁華街から住宅街へ抜ける丁度通り道に、そのテのホテルが立ち並ぶ区画が存在した。想像するより堂々とそこへ出入りする男女を無意識に眺めながら歩いていると、そのひとつの前で並び歩く一組の男女が目に入り…愕然とした。
 灰色のスーツに落ち着いた紺のネクタイをしめた三十代後半ほどの男は、一度目にすれば忘れられないほどに整った顔立ちをしている。そして誰が見ても麗しいとしか形容しようのないその男こそ、理久の祖父──実際はもうすぐ還暦──だった。
(お爺様…)
 それは頭を鈍器で思い切り殴られたような衝撃。
 祖父は若い私服姿の少女の手を取り腰を取り、彼女を巧みにエスコートして、黒塗りの外車に乗り込んだ。それはまぎれもなく、祖父が雇っているお抱え運転手饗庭輝利(あいば・てるとし)が運転するものだった。
 
 たった今、自分の目で見たことが、理久には信じ難かった。恐らくホテルで祖父と情交をかわしたであろう女は、大人っぽい服装ではあったが、その容姿は幼く、どう見ても女子高生ぐらいにしか見えなかった。
 援助交際──昨今ではあまり耳にしなくなったそんな言葉が、脳裏を過ぎる。
(まさか、お爺様がそんな事…)
 理久にとって、祖父は父でもあり、絶対的な存在だ。冷淡で威厳に満ちた彼を、理久は誰よりも尊敬し、ひそかに慕っていた。だからこそ、見間違いだろう、そう思いたかった。
 だが一方で、自分が祖父を他人と見紛う筈がない、まして祖父ほどの美男子がこの世に存在する筈がない──とも思った。
 結局悶々としたまま帰宅した理久だが、いつもどおりではいられなかった。今まで祖父の帰りが遅かったり、帰ってこない日さえあるのは、病院が忙しいからだと思ってきた。だが、そうではないのではないか…今日のように、孫とそう歳の変わらない少女達と夜を過ごしていたのではないか──疑い始めると、どこまでも想像は駆け巡る。
 だが、ベッドシーンを思い浮かべようとして、ようやく我に帰った。
(何を考えているんだ、俺は!)
 
 ある筈がない。あの清廉潔白な祖父が、援助交際など…ある筈がないのだ。考えれば考えるほど、馬鹿げている。
 理久は悪い方へ傾こうとしていた思考を振り切り、いつものように夕食の用意をはじめた。
 家の前に車が停まる気配がしたのは、それから数分後の事だった。

 祖父だろうか。
 キッチンの窓から確認すると、丁度祖父が饗庭にエスコートされて車庫から出てくるところだった。
 彼が、まだ8時を少し過ぎただけのこの時間帯に帰宅するのは、かなり珍しい。

 理久は慌ててエプロンを外し、玄関に向かう。言い付けられたわけでもないが、きちんと出迎えるのが習慣になっていた。
「お帰りなさい、お爺様」
「ああ」
 何とか、間に合った。祖父は理久を一瞥すると、神妙な顔付きで挨拶に応じ、リビングに足を向ける。
「あ、すぐに夕食をご用意しますから、もう少し待って下さい」
「いや、済ませてきた」
「そう、ですか」
 不意に先程の光景がフラッシュバックする。先を行く祖父は、グレーのスーツに紺のネクタイを合わせていた。やはり、同一人物としか思えない──。
(だとしたら、どうしてあんな事を)
 独身の寂しさからだろうか。孫である自分だけでは、心の慰みとして不十分なのだろうか。
 物心ついた時には既に、祖母の姿はなかった。離婚か、死別か。そもそも両親の死とどちらが先だったのだろう。
 理久自身の記憶がないのは、交通事故が起こった時、まだ一歳にも満たない赤ん坊だったからだ。
 両親も祖母も人づてに聞いた想い出話の中だけの存在で、理久にとって肉親と呼べるのは、祖父ただひとりだった。
 ずっとふたりきりで過ごしてきた。この、広すぎる屋敷で。生活時間のズレから、まるでひとりきりで暮らしているようだったけれど。
「理久」
 不意に呼びかけられ、はっとして意識を目の前の現実に戻す。
「はい」
「今週の土曜は、部活はあるのか」
「あ、はい。午前中だけですが」
「ならば、午後は空けておけ。ディナーに出掛ける」
「え?」
「お前に紹介したい者がいる」
 その一言に、心臓が跳ねた。ギクリ、という音が祖父に聞こえてしまったのではないかと、内心冷汗をかく。
 それは今日一緒にいらした女性ですか?──とは、聞くに聞けなかった。聡い理久の頭脳は否応なしに回転し、あまり喜べない結論を弾き出す。
 自分に紹介するという事は、あの少女と再婚でもする気なのだろうか。彼女が既に十六歳の誕生日を迎えていれば法的には何ら問題ない事だが、それを差し引いても容易には受け入れ難い。一体何歳年が離れていると思っているのか。清い交際というわけでもないだろう。
(まさか……妊ませたんじゃないだろうな……?)
作品名:My Little Angel 作家名:9.