ぐらん・ぎにょーる
そして、由貴也は身軽に窓をのりこえ、大岩は彼を追いかけ窓に突進していった。まるでサイドワンダーのようである。呪いでもかけられているのだろうか。壁が壊れる音。もちろん、大岩は引力の法則により笑いながら下に落ちていった。この後、このピルの下で何か起こったのかは考えたくもない。そして、由貴也の末路は?
「いやー危なかった。お取り込み中のとこすまないな。いや!とある神秘の森で石像を手に取ったら大岩に追いかけられてさ、目の前に何故か扉があったから逃げ込んだらこんなところに通じているなんて、いやいや世の中侮れないねぇ」
壊れた壁をはい上がってきた由貴也は、目の前で笑う大岩現わるにも何事もなかったかのように闘いを続けている黒薔薇男爵と白百合女侯爵に動じた様子もなかった。
玲は薄笑いを浮かべて、茉莉花茶を飲む。優雅なこと殊更ない。しかし、この状況でよくそんなに優雅にしてられるものである。いったい、どのような精神構造をしているのだろうか。空になった茶碗を差し出すと、すぐさま新しい茉莉花茶が注がれた。
「それにしても、もの凄い惨状だなここ」
明るく、しかも軽く云った由貴也の台詞が紗雨と篁を現実に引き戻した。それにしても少なくとも、この惨状の一部は彼にも責任がある筈なのだが、どうだろう。たちまち紗雨は青ざめ、篁はしまったとでも言いそうな顔をしていた。できれば、影の最高実力者にお小言を言われる羽目には陥りたくはない。
「そうですね。それにどうやら、あの様子では決着はつかないんじゃありません?ね、警部さん」
玲はちろりと、闘い続ける黒薔薇男爵と白百合女侯爵を流し見る。二人とも、「黒薔薇僚乱」「白百合散華」等と新しい技を繰り出しており、まだまだこの闘いを続けるつもりらしい。困ったものである。
「なんで、君はそんなに楽しそうなんだ」
可哀相な神田川一生。普通からは逸脱しているが、ここにいる探偵を代表とする人達ほど逸脱しきれないために彼は困ったような顔をして弱ることしかできない。
「楽しくないですか?」
玲は不思議そうに小首を傾げる。妙に天真爛漫な様子。たぶん、黒薔薇男爵と白百合女侯爵の闘いも楽しいのだろうが、困りきっている神田川を見るのも同じくらい楽しいのだろう。非常に、困ったものである。その態度に、神田川は思わず頭を抱えたくなった。所詮、この探偵にマトモな事を求めても無駄な話である。
「俺はそれよりも、この状況をどうにかしないと巽ちゃんが半狂乱になるのが怖い」
「誰が半狂乱ですって?」
神田川が後ろを振り向けば、そこにはポットを持った巽が立っていた。どうやら、玲と同じくさっきからそこにいたようである。道理で先程空になった茶碗に茉莉花茶が注がれる筈である。顔には人の良さそうな笑みを浮かべているものの、よく見れば微かに片頬が小刻みに震えていた。
「た、巽ちゃん。いらっしゃったのか」
篁は慌てるあまりに言葉がおかしい。その上、壁に張りついたその姿は、いまにも逃げだそうとしているような態勢だったりする。余程、彼女は性悪執事さんが怖いのだろう。
「本当に、巽がいるのに気づいていなかったんですか」
にこにこと玲は笑った。まるで、他人事のようである。いや、本当に今回は他人事であった。
「確かに、御前が自分でお茶を滝れるなんてことはしないし。ぬかったぜ、さっさと逃げておくんだった」
由貴也が舌打ちをする。ついでに、本当にこの場から逃げようとするが、一人で責任を取るつもりは全くない篁に襟首をっかまれて逃げ損なう。不幸な事である。
「篁、貴方がいてこの状況はどういうことなんですか」
巽はそれこそ怖い位の優しげな笑顔を浮かべていた。優しげな顔で、怖いことを云いだすこと程、恐ろしいものではなかろうか。
「不可抗力だぞ、これは」
篁はそれこそ一所懸命に、言い張った。しかし、篁が巽を丸め込むことなど世の中がびっくりかえっても到底無理な相談だった。
その後、清廉潔白探偵事務所では、世にも恐ろしいことが起きたらしいが、余りの恐ろしさに詳細を語るものは少
ない。聞いた話ではなんでも、あの白百合女侯爵と黒薔薇男爵が書斎の掃除や修理をしていると云う、世にも珍しい光景が見ることができたそうである。
作品名:ぐらん・ぎにょーる 作家名:ツカノアラシ@万恒河沙