ぐらん・ぎにょーる
くるくるりんくる
くるくるりんくる。くるくるりんくる。
春の昼下がりの事だった。
毎度お馴染み神田川一生氏の登場。小悪魔こと聖玲の書斎では、四人の人物が自分勝手に思い思いのことをしている。真紅の着物に黒い楊子の帯を締めた十才位姿をした少女がお茶を立て、灰色のスーツに黒のシャツ、そして白いネクタイを締めた鬼堂篁は長椅子の上で煙草くゆらせ、小悪魔は何やら手紙らしきものに見入っている様子。そして室内に流れるは、サラサーテの『歌劇《カルメン》のモティーフによる演奏会用幻想曲』を白い背日をを着た性悪執事が、レコードの伴奏に合わせてヴァイオリンを弾いていた。
「ちょうど良いところにいらっしゃいましたね」
弱冠十五才ながら、猟奇事件専門の清廉潔白探偵事務所所長の聖玲は、螺旋階段を降りてくる神田川に気がつくとその性別不明な綺麓な顔を綻ばせた。黒い和服を着た華奢な青白い手には二通の手紙を持っている。神田川は、何かしら厭なものを感じる。いつもの如く、妙なことが起きる時と同じ始まりだからである。丁度、『カルメン幻想曲』がイントロを終え、有名な花の歌に移る。プロ顔負けの腕前と、非常に個性的な演奏表現。神田川はこの優男が何故、わざわざ執事なんていう職業を選んだのかよく解らないし、理由を知らない。
「実は、面白い依頼の手紙が来たんですよ」
玲は二連の手紙をひらひらと振ってみせる。どちらも同じ白い封筒で、似たような几帳面な字で宛て名が書いてあった。同じ人物から二連送られてきたのかとも思うが、それにしては思わせぶりな出し方をしたもので在る。字を見るかぎりは、差出人の性別は解らない。
「またかい」
神田川はうんざりしたように呻く。こういう手紙には玲はいざ知らず、神田川にとってはロクなものがない不幸を招き寄せる手紙と相場が決まっているのである。神田川の目の前に、神田川を案内してきた女中の松風が優雅な動作で綺乃が立てた抹茶とお茶菓子を置く。
「そんなに厭そうな顔をしないでくださいよ。この二通の手紙の差出人はどちらも愛沢恵さん。名前も同じなら、住所も同じ。依頼内容も同じ。その内容は、どちらの方も、自宅に自分以外の別の人間が棲んでいるという同じ訴え。ただし、違うのは棲んでいる人間の性別だけ。なぜでしょうね」
玲は机の上に、二連の手紙を並べてみせた。神田川が覗きこむと、確かに二通の手紙は文まで瓜二つ。違うところは、
棲んでいる人間の男か女の一文字のみ。いったいぜんたいこれはどういうことなのか。神田川の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになる。暫く神田川は悩んだが、しかし所詮は神田川である。何か思いつく筈もなかった。
「そんなこと解るかい」
考えることをすでに放棄した神田川はおざなりに返事をする。見事な諦観の境地であった。いつか、悟りを開く日が彼には来るのであろうか。謎であるし、可能性は少ないような気がする。
「警部さん、警部さん。そんな返事つまらないよ。お話にならないよ。もう少し、独創性か創造性を発揮しても良いんじゃありません」
くすくすと声をたてて玲は笑う。わざとらしく手に持った白扇で口許を隠している。そして、これみよがしに子供ぽい仕種で足をばだばたさせた。その人の神経を逆撫でするような仕種に、神田川は撫然とした。その様子に、篁と巽が苦笑して肩を諌めさせた。
「つまんなくていいの、俺は平凡な一般市民なの」
神田川はすぐに白旗を挙げた。だいたい、玲と張り合おうと思うのは大きな間違いなのである。そんなことをすれば、結果として酷い目に会うのは神田川の方である。
「変な自慢の仕方じゃな」
「珍しいな、そこまで開き直るのは」
篁と綺乃が神田川の台詞を鼻で簡単に笑い飛ばした。神田川は、二人の冷たい台詞にがっくりと肩を落とす。悲しいかな。この場には、神田川の味方に誰一人となる者がいないらしい。
「あのな」
あまりにボキャブラリーがあまりに貧弱な罵晋雑言を言いだそうとした神田川のセリフは、扉の開く音で中断された。どうやら新たなる登場人物の華麗なる(?)登場と言うことらしい。いつのまにか、執事はヴァイオリンを止めて、こんどはショパンの『マズルカ』を弾きだしていたりする。
「御前、ご依頼人様がいらっしゃいました」
しずしず螺旋階段の上に現れたのは、黒いお仕着せを着た村雨と言う名の美人の女中さん。相変わらず、伏目がちで人形じみた無表情は何を考えているのか神田川には窺い知れない。無論、依頼人の印象などを彼女に聞いても無駄である。
村雨の背後から現れる依頼人。神田川が見るかぎりでは平凡な男であった。どこといって印象的なところがない顔色が悪く痩せた男。もしかしたら、次に彼に道端で会ったとしてもも解らないかもしれない。それくらい平凡な男なのである。これが、奇妙な依頼主とは俄に信じられない。ところで男は、何故か大きな手荷物を持っていた。それもかなり重そうな手荷物である。さて、荷物の中には何か入っているのだろう。
大きな手荷物。
男は書斎を見回すとおずおずとした様子で、ゆっくりと螺旋階段を降りてくる。そして、弱気な依頼人は『マズルカ』の最後の音が弾かれるのと同時に、玲の持つ扇で指し示しられた椅子に腰を下ろした。まるで、打合せをしていたかのようである。
ヴェートーヴェンも裸足で逃げだしてしましそうな、悩ましげな顔をした男は、なかなか喋りだそうとはしなかった。膝の上に重ねられた両手がもぞもぞと落ちつきなく動いている。どうやら、内気な上に人見知りもするらしい。暫く沈黙が続いたが、たまりかねたように玲が話の口火を切った。
「どうなさいましたか?」
「実は、私のウチに誰か知らない女が私に黙って住んでいるんです。いったい、どうしたら良いのでしょうか?」
男は下を向いたまま、抑揚のない口調で淡々と告げる。その雰囲気の暗さといい、いまにも男はずぶずぶと床に沈んでしまいそうだった。底無し沼へ一直線。
「何故、それが解るんですか」
思わず、神田川が口を挟む。男は神田川の方に向き直り少々ヒステリックな口調でこう言った。印象の薄いのはそのままではあったが、それだけにヒステリックな口調になると奇異な感じを与える。いつものことながら、神田川はたじたじになる。よくぞこれで、警察官、しかも猟奇課の警部なんて勤まるものである。世の中不思議なことでいっぱいである。
「だって、私の知らない女物の服や、化粧品があれば普通は気がつくでしょう」
確かにそれは、その通りだ。しかし何か、根本的なところがおかしくはないだろうか。それに、男の目の色がどこかおかしい。神田川は情けない曖昧な笑いを洩らす。そして、内心ではこの清廉潔白探偵事務所にやってくる客はこんなのばかりなのだろうと考えていた。考えても無駄なことばかり考える男である。
「本当にどうすればいいのか解らないのです。相談できるような友人もいませんし、どうしようかと思っていたところ……あ、し、失礼」
男は唐突に話を止めると、口をハンカチで押さえるどこかへ走っていってしまった。なぜか手荷物も一緒に持っていったようである。電光石火の早業。いったい、男に何か起こったのか。四人は、思わず無言で顔を見合わせた。何か厭な気がしたが、その厭な気が何なのか誰も説明はできなかった。
作品名:ぐらん・ぎにょーる 作家名:ツカノアラシ@万恒河沙