ぐらん・ぎにょーる
「……まさか、つわりってことはないよな」
と、神田川。どうやら、神田川は本当にマトモに考えることを放棄してしまったらしい。気の抜けたような、惚けた顔をしている。
「あったら、それこそ大変だろうが」
と、篁。
「でも、何年かひとりくらい、妊娠したと言い張る男の方っていますよね」
玲はとても楽しそうに言った。玲の場合、男が妊娠したとしても驚きはしないだろう、あるとすればただ面白がるだけである。男が書斎を立ち去ってから、時間が過ぎること約三十分。そして、再び書斎の扉は開けられた。新たに登場した人物を見た神田川の目は点になり、顎が落ちる音がした。
確かに、扉から現れたのは先程の男には違いない。違いないが、その姿恰好はあの平凡極まりない男とはどうしても信じたくないものであった。男は何故か女装をしていた。しかも、どことなく魔法少女を彷彿とさせるような格好である。男は周囲の空気には気づかない。いや、気づく気もないらしい。男はすっかり自分の世界に、どっぷりと首までつかっていた。
「魔法少女リリカルメグムちゃん登場」
元男は可愛らしく、少なくとも本人は可愛らしいと思っている笑顔を浮かべる。自称魔法少女リリカルメグムちゃんは、オーキッドピンクのワンピースにベリー・ペール・オーキッドピンクの布を背中で蝶の翰になるように腰に巻いて、頭には縦ロールの鬘をつけ、腰のリボンと同色のリボンを付けていた。その上、背中には『魔法少女リリカルメグムちゃん』と書かれたプラカード。どうやら、このプラカードで自分の存在の駄目押しをしているらしい。本当に、困ったものである。
自称魔法少女リリカルメグムちゃんは、手に持った手品師のステッキを少女趣味にしたモノをバトンガールよろしく振り回して呪文唱える。どうやら、ちゃんと自称魔法少女リリカルメグムちゃんにも魔法を使用する際のお決まりがあるらしい。
「くるくるりんくる。くるくるりんくる。美人OL愛沢恵になーれ」
決め台詞と共に色とりどりの花吹雪が部屋中に舞いあがる。ご丁寧にも、自称魔法のステッキには花吹雪が仕込まれているらしい。その上、魔法少女リリカルメグムちゃんの主題歌らしきものまで流れていた。なかなか、凝り性なお方である。
最後に決めポーズを決めると自称魔法少女リリカルメグムちゃんは、またどこかへ走って行ってしまった。忙しい人である。決め台詞の内容からいって、恐らく今度は美人OL愛沢恵になって再び書斎に戻ってくるに違いない。それにしても、この場合変身というより変装である。その上、美人とわざわざ断るところが恐ろしい。
拍手したくなるほど、自己完結をした世界である。
因みに現在の神田川の頭の中では、何人もの小人さんが『ええじゃないか、えいじゃないか、よいよいよい』と無意味に踊り狂っていたりする。どうやら、ゲシュタルト崩壊まで、あともう一歩というところなのだろう。
暫くして、今度は自称美人OL愛沢恵が登場した。
「助けて下さいっっ。私のおウチに誰か知らない男が住んでいるんです。きっとストーカーですわ。ああ、美しいのは罪なのね」
自称美人OL愛沢恵は瞳をきらきらと輝かせて嘆いてみせた。そのうち、シェイクスピアのヒロインよろしく卒倒でもしてくれそうである。
それにしても彼女は、いったいぜんたい、本当に困っているのだろうか。よく解らない。それにしても、要するに愛沢恵という人物は多重人格者だったわけだ。もしかすると、彼女は人格が変わるごとに、わざわざ自称魔法少女リリカルメグムちゃんに変身してから、人格を変えるお約束になっているのではないだろうか。困ったものである。
「なるほど」
玲は厳かに頷いた。頷くしかすべはなかった。さすがの綺乃と篁の目が点になり、巽も一瞬当惑したような色を浮かべる。この事は珍しいことであった。しかし、奇妙な依頼人になれているとは言え、一人の人物の中にいると思われる別の人格を互いに変質者扱いしている依頼人なぞ、そうそうお会いする事はないと思われる。仕方がないと言えば、仕方がないのではないだろうか。
「なるほどじゃないっっ。いいのか、こんな多重人格者。心理学から見ると、大間違いだぞっ」
神田川は一生懸命に自分の常識を総動員して無駄な抵抗をした。しかし、彼自身がムンクの『叫ぶ人』になるのも時間の問題とも言えなくもない。確かに神田川の言っていることは間違っていない。しかしながら、物語が物語なので色々と侮れないのである。
「でも、現にここにいらっしゃるですから仕方ないじゃありませんか。警部さん、諦めてください」
そうそう、人間マトモに考えてはいけない。明るく、軽く人生送ってみようじゃないか。
「ああ、なんてこと。悲劇の渦中にいる美人のヒロインを無視して話をするなんて、間違っています。おかしいと思わないんですか
愛沢恵は、レースのハンカチを持ったまま、よよよとその場に泣き崩れる。こんなときには、不協和音とスポットライトが欲しいものである。さすがに愛沢恵さんには、そこまでの用意はないらしい。どうせならば、そこまでやってほしいものである。自称魔法少女リリカルメグムちゃんの方が、手が込んでいる。
「美人のヒロインとは、ああいうことを言うのかや」
綺乃が首を傾げて、傍らの篁に尋ねる。玲と良く似た顔だちが、無邪気に笑む。因みに、綺乃は玲の妹ではない。玲の腹違いの姉なのである。何故、玲の姉である綺乃の容姿が十才くらいの少女であるのか、それは東洋の神秘であった。これで後、この二人の兄が揃えば世代の違う同じ顔が三つ並ぶことになる。篁は綺乃の質問に、暫く悩んだ末に結論した。
「普通は言わないだろうな」
それにしても、そこまで悩んでから答えるようなものだろうか、謎である。しかしながら、このような綺乃や篁の態度は愛沢恵嬢を喜ばしただけであった。
「ああ、僻まれてしまうのも美人の宿命なのね。美の女神にも嫉妬されるくらいのワタクシの美貌が全て罪なのね。ああっっでも、そこが力・イ・力・ン」
愛沢恵は、半ばうっとりした様子で言う。そして、どこからともなく銀の手鏡を取り出して魅せられたように鏡の中の自分に見入った。そのうっとりとして、頬を桜色に染めているところなんぞ、はっきり言って不気味の一言に尽きる。ここまで、自意識過剰なのは見事としか、言いようがない。因みに、このような人が近くにいたら、物凄くはた迷惑なような気がする。
「何か、鬱屈したものを抱えているんですかね」
のんびりとした様子で、玲が言う。もう愛沢恵嬢の存在に慣れたのか、非常に面白そうであった。困ったものである。
「その内、アレのことをクモだとか木とか怪物とかにしてくれる輩が現れるのではないのかや」
綺乃は何か勘違いしているらしい。
「それも、困ると思うけどな」
「まぁ、平凡な顔の方が、化粧映えがするとは、普通は申しますが。個人的には、もう少し化粧の仕方を勉強された方が宜しいと存じます」
巽は妙に冷静なことを言う。優しげな顔をして、かなり毒舌な男である。
「何で、こんなに呑気なんだ。こいつらは。それに、見事に会話が成り立っていないぞ」
神田川は頭を抱え込んだ。頭を抱え込む位しか、今の神田川にできそうな事はなかった。
「細かいことを考えても無駄だぜ」
作品名:ぐらん・ぎにょーる 作家名:ツカノアラシ@万恒河沙