暗転、そして、
私を追い抜いたリリーは、赤い卵にためらいなく爪をたてた。いや、たてようとした。その一閃は茶色と白の分厚い羽毛に阻まれ、届かなかったのだ。
『やめやがれッ!』
『殺すって言ったよ、あたしは!』
『俺は、やめろっつってんだよ!』
リリーは今度は無言で爪を掻き、茶色の羽毛を引き裂いた。赤黒い血がスプレーを噴いたようにパッと散り、その身体が少し揺らぐ。
『ハーフ・フィッシュ――』
体勢を立て直しながら、ヴェルグは言った。
『おまえは心が痛まないのか』
ヴェルグの台詞から”ハーフ・フィッシュ”が言葉どおり、”混血のスカイフィッシュ”を示す言葉であることは容易に知ることができた。リリーはつまり、カテゴライズするならば、ネコとスカイフィッシュの混血なのだろう。
『痛まない、だって――?』
何か言おうとして、リリーは意図的に沈黙したようだった。言い返す為の台詞は喉元に準備されたのに、言ってはいけない、そう考えているような苦い表情を浮かべている。
フィールドが刹那の膠着状態に陥る。
それを破ったのは、リリー自らによる鋭い一閃だった。空気と空気が摩擦するキリキリという音と、超音速の風圧が生み出す視界のゆがみ。しかし何が起こったのかは肉眼では確認できなかった。おそらく高性能カメラなんかでは、その動きが確認できたのかもしれないが、それすら危うい。
ヴェルグの姿が消えた。今まで彼のいた場所に、今度はリリーがいた。
『鳥のくせに! あたしに説教するな!』
リリーは喉元までやってきた台詞を放つことはなく、むき出しにした怒気の影に隠してしまった。
『全く、力に任せ過ぎる――アキ、下です。ハヤブサが叩き落された』
『私を吹き飛ばしたのと、同じ技』
攻撃をもろに受けたハヤブサのヴェルグは、身体を強張らせながら遥か下界に向かいきりもみ落下していく。
そして、肝心のスカーレットは、ヴェルグの手から離れて、突風に似た気流により上空に巻き上げられた。ここで初めて、ヴェルグの手からスカーレットが離れてしまったことになる。
私は上と下の両者を見比べ、そして行動を再開した。
『ナナシノモノ! どうして、のろい人間や、鳥なんかの味方をする! 助ける、構うのさ!』
リリーの怒号構わず、私は空気を蹴る。
『あんたはいつも何もしなかった癖に、傍観者の癖に! 今更何さ! 止まりなよ!』
スカーレットは淡い鳴動と鋭い輝きを交互に繰り返していた。まるで鼓動のように見えて、余計に破壊はやめさせたくなった。しかし現実、私とリリーが速さを競っても、確実に負けはこちらの方だ。リリーのみならず、その他のスカイフィッシュたち然り。
純粋な空中戦では、分はないだろう。
だから私は迷わず、下へ向かって空気を蹴った。落下するハヤブサは半分目を回している。
『起きてハヤブサ!』
空中戦ではこちらに分はない。しかしあくまでそれは、「純粋な」空中戦のみに言えることである。上か下かを吟味するまでもなく、取るべき道は一つしか残らない。空中で分がないならば、地上へ持ち込めばいい。
下を選んだ後、視界の端で、地上のある区域をさりげなく確認しておいた。そして空気を二、三度強く蹴り、ヴェルグに追いつく。
攻撃と落下の衝撃で昏倒しかけていたヴェルグの、先ず長い爪を右手で捉えた。次いで左手でその足首を掴む。
『今から私がやることは、段取りを説明している時間ない。だから文句も言わないで!』
気つけ代わりに、私は大声で叫ぶ。初対面の相手に行なう仕打ちではないが、これしか手段が浮かばないのだから仕方ない。
『強引な女……』
朦朧とするのか、頭をぶるぶると横に振りながら彼は言った。これは了承だと受け取っても良さそうだ。
『よろしくハヤブサくん』
『はは。よろしく、人間』
僅かに不本意そうな表情を滲ませながら、ヴェルグは言った。
握手の代わりに私はヴェルグの足をしっかと掴む。そして身体を、力いっぱい上方に投げ上げた。反動で私の身体が少し後方に退いてしまったが、幾らも下がらず踏みとどまり、ヴェルグの行方を仰いだ。
思ったとおり、その飛行速度はスカイフィッシュの基準値に匹敵どころか、下手をすれば凌駕しそうだった。遠目ではあったが、スカイフィッシュ群をあれだけ翻弄せしめた速さは、単なる鳥類としてのハヤブサと片付けるに惜しい。
『ナナシノモノ、ハヤブサくんの速度は?』
『すごい――推定秒速一一〇〇メートルです、手負いとは思えない』
スカイフィッシュの速度基準値をクリアしている鳥類は、月を両断した。実際には目の錯覚でしかなく、超音速で飛行する物体により生じた真空で、月光が湾曲しただけの単純な現象だが。
『空のてっぺんに上り詰めたスカーレットは、格好の的になるわ』
リリーが手を伸ばすよりほんの零コンマ差で、下界から急浮上したヴェルグが、赤く輝き続けるスカーレットをさらった。音速の三倍を凌駕する風圧で、卵が壊れてしまうのが少し心配だったが、月を背にした彼の翼には楕円の発光体が丁寧に携えられている。
垂直に上昇したヴェルグに対し、統制に乏しいスカイフィッシュ群は、思い思いの軌跡を描いてターゲットを追尾した。
『あれでは狙ってくれと言っているようなものです、アキ』
『そうよ、狙ってもらうの。だから、必然的に――』
誰もが彼らに注目する。そして必然的に視界に収めてしまうことになる、背後の景色。バックには、高度を上げ始め、橙から白へと輝きを増しつつある明るい月がある。
私はその明るさをなるべく目に収めぬように努めた。これから行なう敗走計画に差し障るからだ。
『ハヤブサくん!』
私は右手を挙げ、空中に留める。
『アキ、まさか――』
留めた右手は「待機」を求めるサインだった。要求どおり、ヴェルグはスカーレットを携えたまま、宙で停止する。
『狙われている対象そのものを、スカーレットを、おとりとして使うのか』
私は右手を下ろす機会を測りながら、ナナシノモノの指摘にやんわりと反論を呈する。
『みんながスカーレットを狙ってるんだから、スカーレットじゃないとおとりにならないでしょ』
ネオンの虹の外れにぽっかりと口を開ける、暗い場所を私は見た。さっき横目で確認したのは、その暗さを確認する為だった。県境の山地と、連立する電波塔に高圧線、そして根元に広がる常緑樹林帯だ。地上へ引き込むならネオンに紛れるより、余程確実だと思われる。
敵を思うさま引き付けたのを確認し、私はサインを変えた。今度は「急降下」を求めるもの、そして電波塔を目印に、私自身も降下を開始する。
『逃がすもんか! 赤い悪魔を寄越してよ!』
卵を抱いて直下するヴェルグを、他のスカイフィッシュたちより群を抜いて正確に、リリーは追尾していた。
『所詮お前はハーフじゃねえか! どっちつかずがエラそうにすんじゃねえ!』
次の瞬間、骨が砕ける鈍い音が辺りに響き渡った。
激昂に震盪する、物言わぬリリーの頭蓋がヴェルグの胴体にめり込んでいて、スカーレットに衝撃がいかぬよう努めた為か、ヴェルグの翼羽部は不自然な方向に折れ曲がっている。