暗転、そして、
よく通るハスキーボイスですぐさま、彼女は私を怒鳴りつけた。吐き捨ててから、私に聞こえるように鼻から息を吐く。
闇より濃い、闇を凌ぐ黒い毛並みと羽根。黒だが決して闇に溶けることのない、艶やかで美しい色に、首に巻いた太いシルクの白リボンが映える。
背中で結ばれた蝶々が、夜風を受けてしなやかにはためいた。太陽のように輝く、光を集めたような金色の瞳が、私を睨み据えている。
「ナナシノモノモノからはがれなよ。ジャマだ、あんた」
今度は一転して、静かな口調で、見下すように彼女は言った。
「彼女は、ダイヤモンドリリー。僕の友達です。許してやって、酷く口が悪いんだ」
「ネコじゃない」と彼女自身は言ったが、らんと光る大きな双眸をはじめ、上に伸びる高慢な尻尾と、三角の耳、四肢を見ても黒猫に相違ない。ただ一つ、背中から生えた漆黒の、透きとおった羽根だけが異質だった。
「愚鈍な人間とぐるになったあんたなんか、仲間じゃあないよ、ナナシノモノ」
「リリー、彼女はアキ、というんです」
「そんなことどうだっていい――なんであんた、その子を連れてきたの。これから何が起こるか、分かってたんじゃあないわけ?」
リリーは、何かを探すように周囲を仰いだ。
心なしか、空に集まった星たちがざわついているような気がする。先程まで、確かに何かの到来を待っているように見えたが、それが確信に変わったので落ち着きを無くしているかのような、心地の悪いざわめきだ。
「冬の乾いた大気、夕焼けの赤。震えるような赤い大気。ここ最近、雨も雪も降らなくて、張り詰めた赤い夕方ばかりだった。それが何を意味するか、分かってたんじゃあないの?」
リリーは言った。満ちた大きな月を背にして、たった今太陽が沈んだ方向に視線を注ぐ。中間層の更に上空、星光のヴェールの真下あたりを、じっと見据えた。
鼻をクンクンと利かせ、やや上を仰いでいる。大きな耳に付いた小さな鈴のピアスが、毛並みの隙間からリンと音をたてる。
彼女の言葉が何を意味するのか、これから”何”が起こるというのか。私は酷く気になったが、また怒鳴られてしまいそうで、訊くかどうかを一瞬躊躇する。
「ああ、あんたは知らなくていいんだからね。これはあたしらの問題なんだから」
リリーは先手を打ってやったとでもいうように、したり顔で言った。
「あんたはどうせ関係ない。タイムリミットがきて元いたところに戻るだけ。あんたがいつはがされようと、何処へいこうと、永久に部外者であることに変わりはないんだから」
今一度、リリーは「はがす」、という言葉を使った。
喋るネコの登場に浮き足立っていた私は、やっとその言葉の恐ろしさに気が付く。
「でも、ダイヤモンドリリー――」
「あたしのこと気安く呼ばないでくれる。名前がもったいない」
私は今度こそ何も言えなくなった。
「はがす」とはつまり、再び虚無の闇に還ること。ナナシノモノモノを失った私は、再び昏睡の中へ陥ってしまうことになる。この地表から遠い、遥か上空で。
目下に広がるネオンが織り成す、一面の虹の海に墜落し、頭が砕ける想像をした。
「アキ、心配しないで」
「うん」
「今から何が起こっても、僕は、こんなところからアキを落としたりはしません」
「うん」
結局、説明してはくれないのか、と少し落胆したが、ナナシノモノモノの声と言葉は優しかった。
自由を許された空の時間にはタイムリミットが存在する。私はそれを心に刻み、落胆を押し隠すよう黙ることにする。
「リリー、言葉が過ぎる。ピリピリする気持ちは分かりますが」
リリーはナナシノモノモノの言葉を無視し、太陽の沈んだ方向、つまり西の空を睨んでいる。私の中のナナシノモノモノも、同じ方向を見ているようだった。
その空に、不意に稲妻のような赤い閃光が走る。
空の瞬き。うす雲が割れる。渦のような赤い輝きが、時折ストロボをたいたようにフラッシュし、星光のヴェールから下へと伸びていく。
周囲には、円形に吹き飛んだ雲が巻き、土星の輪のように輝きの中心に付き従っていた。
「スター・オブ・スカーレット」
リリーは憎々しげに赤い輝きを睨み、そして言った。スター・オブ・スカーレット――直訳すると、緋色の星。
「赤い、悪魔」
そう言い直してから一度だけ、リリーは私の方を振り返った。正確にはナナシノモノモノをかえりみたと言った方がいい。ナナシノモノモノを一瞥したリリーは、睨んだだけで何も言わず、スター・オブ・スカーレットと呼ばれたそれに向き直る。
そして、風の余韻を残し、掻き消えるように姿をくらませた。慌てて目で探す。黒いネコは遥か前方を、赤く輝く球体へ向かって、弾丸のように真っ直ぐ飛んでいた。あまりの速さに彼女の周りは空気がたわんでいる。
「何をするの」
私はつぶやいた。上空の星たちが鳴動しているが、どちらの味方だろう、私には分からない。
「あれを、破壊するんです。約一年周期で時折生まれる、緋色の、スカイフィッシュ。赤い悪魔」
「悪魔――」
「あれが卵であるうちに。自我を持たぬ幼生であるうちに。誰かの情が、移ってしまうその前に」
ナナシノモノモノの口調は、唱えるような棒読みだった。動く気配はない。
「あれを、待ってたんじゃないの」
「誰がですか」
「きみがよ、ナナシノモノモノ。空へ誘った、私を。それが今日であったことに、リリーが言うように理由があったのだとしたら――きみは、あれが今日生まれると、知っていたんでしょう」
違う、と、ナナシノモノモノは小さく否定する。
ぼんやりとした球体だった赤い閃光。悪魔と称されたそれは、次第に直径を縮め、比例するように輝きが凝縮されていく。
「美しい緋色の、星屑のようなスカイフィッシュ、スター・オブ・スカーレット――空の高みに渦巻く冬の乾きと、濃い夕焼けの大気が凝集することによって生まれる、スカイフィッシュの変異亜種。だから破壊される。生まれるなり直ぐに。だって、存在してはいけないものなのだから」
星光のヴェールと虹の海に挟まれた、真っ黒の中間層。
浮かんでいる、閃く赤い球体。スター・オブ・スカーレット。
中間層よりもっと黒い、弾丸のネコ。
整然としたシンメトリーの風景を、私は何もできず、呆然と眺めている。酷い違和感だ。
「うそつき」
私の口から、言葉が零れる。
シンメトリーを侵すように無数の発光体が、耳障りな音で空気を裂きながら、スター・オブ・スカーレットへ向かっていく。流星群みたいに群を成している。ゆるやかな放物線で空をかきむしる、光の軌跡だ。
すぐにそれが、赤い輝きを撃ち落す最初の砲撃だと分かった。初めは緩やかな曲線を描いていたが、目標に接近するにしたがって大きく蛇行し始める。
小さな塊となった赤い輝きは、世界の赤を集めて並べても敵うものはないくらい、鮮やかで、美しかった。質量を持ったそれは、重力に吸い寄せられるように、地表への落下を開始する。その軌道さえ読み尽くした上で、蛇行する砲火が網の目のように連なって、破壊の為に飛来していく。
「どうして、あれは殺されるの」
「変異亜種が、存在してはいけないから」