暗転、そして、
羽根が生えているというなら、天使だとでも言うのだろうか。
「天使なの」
私は正直に訊いてみた。
「いいえ」
「じゃあ、おばけ」
近い。『彼』はヒュウと口を鳴らす。
「僕らは僕ら自身のことを、『大気の亡霊』、と呼んでいます」
亡霊、つまりおばけではないか。近いどころか正解だ。しかしひどい自称だなと思った。
「あるときは魔法使いのしもべであり、天災の前触れであり、要因でもあり。時には未確認生物と騒がれ一世を風靡する――僕らはどこにも存在している、僕らはあらゆる空を飛んでいる、ただしそれを人間が視ることは決してできない。何故なら、僕らはとてつもないスピードで常に飛んでいなくてはならないから」
長い前置きは、まるで唄うようだった。
「人間の眼には決してつかまらない生き物、スカイフィッシュ」
『彼』は明かした。
唄はさしずめ、スカイフィッシュ=空の魚、と直訳してしまわないための、順立てのようにも感じられたのだ。その声はひときわ鈴のように、私の中に響いた。私は『彼』の声に聴き入ってしまっていた。
「スカイフィッシュは唄をうたうのね」
「唄?」
「今のは、唄みたいだった」
私はテレビ番組で仕入れた程度の知識しか持っていなかった。
番組のナレーターは言っていた。スカイフィッシュは、棒状のオタマジャクシにもにた身体で、側面にヒレのようなものを持つ。空中を肉眼で捉えられないすさまじいスピードで飛行する生物。欧米ではその棒状の身体から、フライング・ロッド、とも呼ばれている。飛ぶ棒――ひどいセンスだ。
「スカイフィッシュは人間の思い込みが生み出した産物だと思っていたわ。ハエとか、小虫を見間違えたものだって」
スカイフィッシュは肉眼では決して捉えられない。映像や写真におさめるのがやっとだという。目にもとまらぬ速さで飛行していて、人間の動体視力では追いつけないというのだ。なんとも嘘くさいではないか。
私は、『彼』がそんな、ちゃちな棒状生物だとは思えなかった。しかも架空の。
かといって、『スカイフィッシュ』というその自称が、虚構だとも思えなかった。
もしかしたら。私は根拠のない期待と想像を膨らませる。もしかしたら、テレビや雑誌に騒がれているものと、本当のスカイフィッシュは別のものなのかもしれない。だとすればそこには至高のリアリティが存在する。それこそが、伝説の生物を未だに追い求める者が後を絶たない所以なのかもしれない。
「一つ、スカイフィッシュは――大気の亡霊である」
『彼』は言った。
「二つ、スカイフィッシュは――透きとおる羽根を持っている」
『彼』の台詞を聞きながら、私は永らく横たわったままだった己の身体を、重力に支配されることない空中にて、存分に伸ばす。仰向けに大の字になり、身体をくの字に折って宙返りしてみたり、横にクルクルと回って、360度に広がる夜景に目を細めたりもした。
上空には、遥か上まで何層にも渡り、星が織り成す光のヴェール。黙して語らぬ、オリオンが従える星たちがいた。
地上には、無機質なネオンが、色とりどりに輝く一面の虹の海を描いていた。
中間層の暗闇を泳ぐように舞いながら、次第にどっちが空かなんて、どうでも良くなるに違いない。それぐらい気持ちが良いのだ。
「三つ、スカイフィッシュは――音速の三倍以上で飛ぶ」
しかし夜間飛行は、スズメにさえ劣るほど緩やかだった。
音速の三倍と言えば、マッハ3じゃないか、すごい! などと考えながらも、私には実は、そんなことどうでもよかった。
それにそんなに速く飛ばれては、ネオンも星も、残影になってしまう。見えなくてはゆっくり楽しめやしないからだ。
「動物のみならず、この世の全てに、魂を宿す素質がある。人形さえ魂を持つように――ときに、濃い大気に魂が宿る」
星が誕生する瞬間に似ている。
宇宙空間に漂うガスや塵が集まり、集束し星の卵となる。次第に熱と、質量が生まれ、回転を始めるのだ。そんな、星の誕生を連想させる。
「大気から生まれた、空の眷族――月から零れ落ちた、目の醒めるような純白のスカイフィッシュ。魚ではない。僕らは空を泳ぐ者。僕らはどこにも存在している、僕らはあらゆる空を飛んでいる」
それはいささか綺麗な喩え過ぎやしないかとも思ったが、私は想像した。月光の加護を受ける白いスカイフィッシュを。白く流麗な身体に、透明な翼をはためかせた生き物を。
「大気の亡霊、スカイフィッシュ」
言葉にすると、その二つ名は美しかった。
しかし神聖なようでいて、亡霊という言葉は、「忘れ去られた存在」とでも言わんとする悲しい響きをも併せ持っていた。
「私も、ずっと、亡霊みたいに――この空を漂っていたいよ」
星光のヴェールと虹の海に挟まれた、中間層の暗闇が、怖ろしかった虚無の闇を連想させなかったのは幸いだった。きっと全く異質のものだったからだろう。
東の空の低い位置に、少し橙がかった満月が浮かんでいて、愚鈍な足で空の天辺をひたすら目指していた。
第二章 赤くかがやく流星は世界に厭われる
あの時と、変わってしまったのは何だろう。
私の中には、姉弟三人が揃って空を見上げたあの日、交わした言葉、歓声、全ての記憶が横たわっていた。
数年前の当時、地球に接近してきた彗星のことが、子供たちの話題の最先端だった時期があった。五十年周期で地球に接近する彗星で、名前は忘れてしまったが、発見者は日本人だったことは覚えている。
『肉眼で見えるんだって』
たいして視えもしないおもちゃの双眼鏡を持ち出して、『僕もいつか、自分の彗星を見つけるんだ。』孝平は得意になっていた。
使い方が分からない星座早見盤を、翔はただくるくる回していた。
私たち兄弟は、星が見たかったわけじゃなかった。
ただ一緒の時間を過ごしたかっただけで、天体観測はその口実でしかなかった。
最初で最後の天体観測。
この僅か数日後、父が再婚し、雪子がやってきた。
そして私はあの時見た夜空を、忘れることができなくなってしまたのだ。
◇◇◇
「それは空への冒涜よ」
彼女との出会いは、一般的に言えば最悪の域を出ないものだった。
「あんたなんかの漂流を許すほど、空は暇でもないし、おおらかでもない」
空気をつんざく何かに気が付いたとき、私は既に吹き飛ばされていた。それは真上から飛来してきたのだった。
その何かが、どれ程の速さで飛行していたのかは分からない。推し測る間も与えられず凄まじい風圧が襲い、私の身体は放り出されてしまったのだ。
「呆れたよ、ナナシノモノ。人間なんかに魂をあけわたすなんてさ」
上下逆さまの竜巻を引き起こしながら少々荒っぽく降りてきた彼女は、『彼』へかと思われる暴言を吐くと、空中で静止する。渦巻く風も止んだ。
「ナナシノモノ――それが、きみの名前だったの」
「違うわよ。名無しの者――名前が無いだけ。名乗りやしない、卑怯者って意味よ。馬鹿にしてる」
『彼』に問うたつもりだったのに、彼女が代わりに答え、しかも余計な暴言がおまけとして付いた。
「ネコが喋ってる」
私は呆気にとられるように小さく洩らす。
「あたしはネコじゃない! 殺すよ!」