暗転、そして、
アスファルトが赤く染まった、その理由を知った時、自分がどのような状況下に置かれてしまったのかも、全て理解した。意識が沈む刹那のことだった。全て理解済みの状態で闇に閉じ込められたことだけが、唯一の救いだったと言えるだろう。
結局、私は雪子を「死なせる」ことは、できなかった。あの時の私は、マネキン同然だったはずの脚で、無意識に地面を蹴っていた。
そして、おそらく雪子は事故には遭わなかった。
「アキは、『いもうと』を助けた」
「そうよ」
「殺そうとした『いもうと』を、何故?」
思い出したくない、また頭を抱えてうずくまってしまいそうだ。
あの時何故、自らで危険な目にあわせておきながら、いっそ死なせてしまえとまで思っておきながら、何のために自分が地面を蹴ったのか。直前まで「消えてしまえ」とどす黒い感情を湛えていた、汚い心との対比と矛盾を、考えたくなかった。
「叱ってるの? 慰めてるの? はっきりして」
私は冷笑しながら言った。何故、雪子を殺そうとしたのか。それはまだ、自分の胸だけにしまっておきたい。
不意に、ノックの音が室内に響いた。
「――宮本さん」
か細い女性の声が、扉越しに呼びかけてくる。私は顔をあげた。またコンコンとノックの音が響く。
「――宮本さん、入りますよ」
女性は言った。
装置の数々、ぶら下げられたいくつもの点滴バッグ、淡白なオフホワイトの床や壁。それだけを見ても、今私が横たわっている場所は病院の個室、ベッドの上で間違いない。ネームプレートには、「宮本 晶」と記されていた。
私はおもむろに身体を起こす。全ての感覚がシャットダウンされていたのが嘘のように、長期のブランクを感じさせることすらなく、問題なく身体が動いた。苦しいのは、鼻から喉を圧迫する挿管チューブと、腕に深く刺されたいくつかの針、それだけだ。
私の覚醒に気付いて誰かがやってきたのだ、と一瞬思ったが、それは少し違っていた。ベッドの傍らで一人の少年がうつ伏せになって眠っている。孝平か、と思ったが違った。耳が少し尖っている。英知を思わせる張り出した耳と、長い睫毛。翔だ。
時計を見るとちょうど八時だった。
「アキ、看護師さんが」
真っ暗な病室で、翔は短くも長くもない髪をシーツに沈め、すやすやと眠っていた。最後に見たときはまだ随分成長している。自分が寝ている間の時間がそこに集約している気がして、なんだか申し訳ない気持ちにもなった。ノックした看護師は私ではなく、面会終了になっても部屋から出てこない、翔の方に呼びかけてきたのだろう。
ドアの傍にランドセルが立て掛けてあって、学校帰りに寄ってくれたのだろうと推測する。随分汚れている。私が何年か眠っていたと仮定すれば、孝平はそろそろ中学へ上がっているはずで、そのランドセルはきっと孝平のお下がりをそのまま使っているものなのだ。
「人が入ってくるまえに、部屋からでましょう」
「どうして?」
「言ったでしょう、タイムリミットは『月の酩酊』、猶予は少ない。昏睡状態だったアキが目覚めたことが知れれば、すぐに周りは大騒ぎだ」
確かに、そうなっては抜け出すに抜け出せない。貴重な時間をベッドに縛られて過ごすのは、どう考えても得策ではなかった。
「翔が目覚めたら、びっくりするでしょうね」
皮肉るように言いながら、私は腕から点滴の針を乱暴に引き抜いた。目覚めたときには、私は既にそこにはいない。そして私が再び戻ってくるのはタイムリミットのあと――私が再び闇に戻ったあと。今が永劫の別れになる。
しかしそんな事実さえ、現実感のない夢現のことのように悲壮感はまるでない。雑草を掃うように、残りのチューブも測定の為の電気コードも身体から取り払った。
途端、私はきゃあと声をあげた。蛍光灯のグローランプのような虚ろな光が身体の表面を駆けずりまわり、私は飛び退る。飛び退っても光っているのは自分の身体だから意味はない。
暴れる私の身体から跳ねた火花が点滴バックにぶつかり、栄養剤の輸液がボタボタと床に滴る。
「逃げよう! アキ! こんなところを見られてしまったらただではすみません」
病室の扉が薄く開く。そこから先はスローモーションの中を動いているようだった。
ベッドに手を付いて、窓側の床へ降りる。目覚めた瞬間に目にした擬似的モミの木がどうしても気になって、私は抜かれていた電灯のプラグをひっつかみ、隅にあるコンセントの穴へねじ込んだ。通電の瞬間だけ全ての電灯が一斉に灯り、そこから華やかな点滅が始まる。クリスマスイブは近いのだろうかとぼんやり考え、たくさんの色が思い思いに灯っては消えるさまに、一時目を奪われる。
「ね、私、どこへいこうか」
部屋の中は今だ暗くはあったが、華やかな灯かりに満ちた。私の身体もふわふわと光ったままだ。
窓を開けると、差すように冷たい空気が部屋に舞い込んで、頬の表面がぴんと張りつめる。ベッドの周りを取り巻く仕切りのカーテンが、踊るようにはためいている。
未だ夢の中にいる翔に、小さく「さようなら」を言った。
「アキは、何を望みますか」
「街中の人たちに悪戯したり、もしいるなら、サンタクロースと並走するのもいいかもね」
仰いだ夜空には、不自然なほど多くの星が浮かんでいた。
「それは良い。ただ少し、モラルには欠けますが」
街の中だなんて到底思えない。煌々としたネオンを押しとどめる暗い夜空、それに助けられて、ひしめき合うように星たちが連なっている。何かの訪れをじっと、待っているようにも見えた。
「飛びましょう」
「うん」
この時の私は、「人間は空を飛べない」、なんて考えもしなかったし、『月の酩酊』の意味なんてもはやどうでも良くなっていた。明らかに不自然な星屑の密集を前に、無駄な思索を巡らせることもなく、単純に美しいと思った。
アルミサッシに手をかける。一瞬でその冷たさが指に伝わり、引き換えに私の体温をアルミが受け取る。
足で枠を蹴って飛び出した後、残り香のような温度がそこに取り残された。
病室は三階のようだったが、臆することもない。落ちるかもしれないという危惧は、欠落したように私のどこを探しても見当たらなかった。現に私の身体は、落下などもちろんしない。
「すごいわ、これはきみのお陰?」
「そうだと言えるかもしれないし、そうじゃないと言えば、そうじゃないかもしれない」
水でも空気でもない、ふわふわとした間質の中を漂っているような、不思議な感覚だ。
「きみは何?」
私は訊いた。おおよそ期待はしていなかった。名前を教えたら死ぬんだと脅してきたくらいなのだ、適当にはぐらかされると思っていた。
「羽根が無くては空が飛べない生き物」
『彼』は、声をひそめるようにして漏らした。
「ハネ――」
私は自分の全身を確認するように見回したが、おかしな突出物など何も見当たらない。輪郭が少し、蛍光塗料のような弱い発光でぼやけているだけだ。発光といっても本当に僅かなのだ、闇にぼんやり浮かぶ程度の、ほんの弱い光だ。
彼の言葉はひどく不自由を訴えているようにも聞こえたが、羽根があるのに空を飛べないニワトリや、羽根すら持てなかった人間に対しての最上級の蔑みではないか。