暗転、そして、
住宅街を突っ切る片側一車線の道路、蛇行していて見通しは酷く悪い。その上、並行している大通り同士を結ぶ、数少ないバイパスである為、走る車はかなりスピードを出している。毎年発生する何件もの死亡事故、犠牲者の多くが子供だということは知っていた。
少し離れたガードレールの根元に、水気を失って干からびた花束が置かれていた。死亡事故の名残だ。
そんな危険な道路の真ん中に、雪子はいた。
『雪子! アキねえちゃん!』
孝平は、まさか置き去りにしたのが私だなんて知りもしないで叫んでいる。私と、雪子を交互に呼んで。
『こーたん』
雪子は無垢な笑顔を撒き散らし、孝平を呼んだ。その笑顔は状況に不似合いすぎて、酷く浮いていた。もうすぐここにも花が供えられればいい。
呆れるほどに投げやりな気持ちで、私はその瞬間を待ちわびていた。
『雪子!』
孝平は叫びながら、ぐんぐん近づいていた。植え込みを乗り越え損ねて枝を踏み千切る音がした。そしてまだ何十メートルもある雪子のいる路上へと、走っている。間に合わないでと思った。
雪子は必死な形相の孝平に引き寄せられたのか、ぺたんと一つ歩みを進め、二歩目で足を取られてよろけ、ゴムまりのようにコロンと地面に転がる。示し合わせたわけでもないのに、ゆるいカーブの死角から、大手運送会社のロゴマークが入った中型貨物車両が現れる。積載量も3トンそこそこの大きくはないものだったが、幼児をはねるだけならあの程度の質量で十分だろう。
車体の高い大型車では、アスファルトに這いつくばっている子供なんて、近づかないとそうそう分からない。傾き始めた赤みがかった陽光は、社宅の巨大な影を車道に大きく横たわらせて、雪子を隠すだろう。
運転手がハンドルの上に大きく地図を広げているのを見て思った。ブレーキが間に合わなければいい。むしろ踏みそびれてくれればもっといい。
私は、雪子が「消えてしまえばいい」と思っていた。
その手っ取り早い手段が、「死なせること」だと知っていた。
『ねえた』
雪子が間近で私を呼んだ。
『アキねえちゃん!』
孝平が少し遠くで私を呼んだ。
私は一瞬、自分がどの辺りに立っているのか分からなくて戸惑った。
孝平の一声から僅かに遅れ、どすん、という鈍い衝撃がやってくる。その衝撃からまた僅かに遅れ、激痛が身を裂いた。まるで身体中の骨が共振しねじれるようで、私はぐっと息を詰まらせる。
本当のマネキンのように、私の身体はアスファルトに転がり、何度か叩き付けられた。弾みで身体は一回転し、視界の中をやけに高い空がぐるんと一周する。
アスファルトの表面は、普段は平坦に見えていた。なのに転がってみると、酷くざらざらだ。鉄が内包されているんじゃないかと思うほど、硬く、冷たい。
そして私は、身体の芯がへし折られたように、微動だにできなくなってしまった。
『すごく痛い、助けて』
私は思った。
言葉にしたつもりだったが、肺と気管が何か水っぽいもので詰まっていて、音声にはならなかった。しかもそれは悪化の一途を辿っていたので、もう二度と肉声を発することはないだろう、と分かった。
『アスファルトがどす赤いわ』
私は思った。これももちろん声にはならなかったし、単なる感想だったので、幸い誰にも伝える必要はない。
しかもすぐに赤い色彩は、流れ出しつつある自分の血液だ、と認識できた。肺と気管を塞いでいる液体も、おそらく同じものであろう。謎は数秒ですべて解けてしまった。あっけない幕切れとはこのことか。
『 』
誰かが、何かを叫んでいる。
しかし何を言っているのかは分からない。聴こえなかったのだ。
アスファルトに転がった瞬間は、ガラスの割れる音や人の叫び声、野次馬の喧騒やらが、激痛に混じって頭を割らんばかりだった。なのに突然辺りの音が死に絶え始める。
もやがかかり、闇に足を取られ、沈んでいく。
それは眠りに着く前の、淡く厳かな静寂に似ていて――だからなのか、痛みも何も感じなくなっていった。
◇◇◇
頬の上を流れていく空気が冷たかった。目を瞬いたが、何も見えない。辺りには暗闇が降りている。
ただしさっきまでの、虚無で、命の鼓動すら許さない闇とは違う。いわば、作為的に引き起こされた安静の闇だ。しばらくして私は常夜灯の灯かりを見つけた。
「私は三人姉弟の長女だった。孝平ともう一人、五つになったばかりの翔と。父と――片親であることを除けば、不自由は何一つ無かったはずなのに、少しずつ、たくさんのことが起きて、私の中の色々なものが変わってしまった」
追想の世界から抜け出して、自分の口で言葉を紡ぐ。何か変な感じだった。
「目が覚めたとき、私は『あの場所』ににひとりぼっちだったの」
鼻腔から気管へと通された挿管チューブの所為か、少し咳き込み、声もほとんど出ない。しかし私と彼との間の意思疎通は、最初から明確な言葉なんて必要としなかったから、問題は無かった。
傍らには電子音を絶えず発し続ける、物々しい装置。それらから延びる電気コードの多くが、私に向かって伸びている。蜘蛛の巣に絡め取られた蝶々のようで、如何ともしがたい気分だった。
ふと窓辺に目をやると、モミかヒイラギに似た観葉植物に、今は電灯が落とされているがコードがぐるぐる巻かれていた。その様は私に酷く似ているが、それは飾り木の役目としてあえてそうしているのであって、私とは違う。
「僕がアキを見つけた、あの瞬間まで?」
『彼』の声は、身体の内側から聞こえた。
あの『内包されるような一体感』は、単なる比喩表現ではなかったのだ。ガラクタ人形に宿った魂さながら、『彼』は、私の身体の中にすっぽりと収まっていた。
「ええ。話し相手すらいなくて、自分の独白ばかりリフレインしていた。大半は後悔と懺悔」
意識は――潜在的なところに沈んでいて、表層には発現しなかったが――ずっとあった。完全に死んだわけではない、独白はいくらでも吐けた。幽霊になったのだという可能性も考えられはしたものの、イメージしていた幽霊の定義とは著しく異なっていた為、うち捨てた。
夢を視ているだけなのかとも少し思い待機もしてみたが、いくら待っても状況は打開されなかった。
耳を澄ませど物音一つ、自分の鼓動さえ聴こえない。
そして辺りは暗闇というより、虚無に近い。怖ろしくなって手を握りしめようとしても、自分の肉体の在りかが分からない。上下左右前後に無限に広がる虚空間の中に、意識だけがぽっかりと浮いているような、酷い孤独感が襲ってきたのだ。
「私は、『聴覚』、『視覚』――ううん、五感ごと全て、なくしていたみたい。脊椎損傷か、脳内出血か、もしくはその両方。推測だけど」
きっと私には天罰が下り、意識だけを残して全て奪われていたのだ。生命維持装置と、栄養剤に命を委ねるしかない、ただの『箱』としての人間。いや、からっぽなのだから人形といった方が正しい。
現に、自らが存在していることを感知しかできず、誇示できない状態は、私に計り知れない苦痛をもたらした。
「要因はおそらく、交通事故」